不確定性の形而上学
そういうわけで、ここからは、ふたたび生きている神の光のもとに照らしつつ、真理を探求してゆくことにしたいと思います。 神はこの探求にとって、方向づけを行うコンパスを与えてくれる存在でもあれば、終着点そのものでもあります。現象学的還元や言語の分…
発散のフェーズと、信仰のフェーズ。そして、不確定性の形而上学のうちに潜在的に内包されている、無限数の世界モデル。不確定性の形而上学について言えることはまだかなりありそうですが、プログラムを立ち上げたということで、とりあえずはここで今回の探…
発散のフェーズと、信仰のフェーズ。この二つのフェーズがいかなる思考においても避けられないものであることを示すことで、とりあえず、神の存在を信じるということの位置づけは完了しました。 ようやく神が存在することを前提として語ることができるように…
「ひとは、信じることなしには考えることができない。」今回は、この点についてもう少し考えてみることにします。 選択のフェーズと、信仰のフェーズ。理念のうえでは、形而上学をこのように二つのフェーズに分けることができそうですが(「権利問題」)、現…
無神論、信仰、不可知論。根源的不確定性から出発したのち、形而上学の探求はそれぞれのポジションにしたがって分岐し、探求が進むにつれてますます分岐してゆきます。 ここでは神の存在に話を限定していますが、欲望と形而上学を切り離すことができないのだ…
「形而上学は、探求者自身の欲望から離れては成り立ちえない。」もしそうだとすると、ここからは、恐ろしくないわけではない結論が導かれることになります。 不確定性は、真実在の不在を意味するわけではありません。「真理は存在するが、人間にはそれを確定…
しかしながら、ここで注意しておくべきことが一つあります。それは、「未決定にとどめておくことも、ひとつの態度決定に他ならない」ということです。 私たちは神の存在について、三つのポジションを取りえます。すなわち、まずは、無神論者のポジション。次…
本題に戻ります。神という存在について考えはじめると、私たちが生きている世界の姿には、少なくとも二つの可能性があるということになってきます。すなわち、神のいない世界(世界A)と神のいる世界(世界B)です。 問題は、私たちには、自分がいるのがA…
不確定性の形而上学がどのようなものになるか、これから構想してゆくにあたり、まずは、この形而上学が進んで行く方向について、正直に告白しておくことにします。 以前の『哲学の原罪と心の原初』で取り扱いましたが、哲学的思考は、生きている神なしでもの…
「私たちには、生きている神が存在するかどうか、理性のみによっては確定することができない。」前回、私たちは、この事態のことを根源的不確定性と呼ぶことにしました。「私たちには、生きている神が存在するかどうか、理性のみによっては確定することがで…
「あなたの言っていることを聞いていると、まるで、哲学の根本問題のすべては、神という存在を通さなくては解くことができないと言っているように聞こえるのだが。」 僕は、まさしく事柄はそのようになっているのではないかと考えています。私たちと時代が近…
倫理については、いずれ機会を改めてもう一度論じることにしたいと思いますが、三つの輪の結び目について考えるために、もう少しだけ善なるものについて見ておくことにします。 すでに書いたように、この現代という時代においては、絶対的な善なるものへの懐…
転換をもたらすものは、いつも私たちのもとに唐突に現れます。真なるもの、善なるもの、美なるものをめぐるこの問題についても、神のほうに目を向けることによって、事態は今までとは違って見えてくるのではないか。 神とは、どのような存在であるのか。その…
真なるもの、善なるもの、美なるものをつなぐ結び目は、この現代において、かつてないほどに危機的なしかたで、消失する危険にさらされているようにみえます。 このことを指し示す兆候は、数多くあります。とりわけ、もうずいぶん前にはじまっている芸術の凋…
「哲学の根源を問いなおす。」このことを行うさいには、真なるものと善なるものの関係をめぐるあの古い問いかけが、ふたたび浮上してくることになるのではないかと思います。 真なるものが善なるものと切り離されるかたちで追いもとめられているかぎり、哲学…
すでにこれまでの探求において、私たちは、一般的な意味における哲学の領域をだいぶ踏み越えてしまっています。そろそろ自分の哲学の立ち位置にたいして、自覚的に考えておく必要があるようです。 さて、次のような疑問には、今のうちに答えておくべきである…