イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ひとは死んだらどうなるのか

死についての考察のおわりに

これで、死についての今回の探求は終わりになります。二ヶ月という長い期間がかかってしまいましたが、読んでくださった方は本当にありがとうございました。 心残りなのは、「死ぬことは自分にとっては恐ろしいことではない」というコメントをくださった方が…

神の愛を信じるということ

「わたしが死から救われるかどうかは、神がわたしを愛しているかどうかにかかっている。」ここにいたって、救いの道について哲学の側から語れることは、その終着点にたどりついたことになります。 あとは、神が存在するかどうか、そして、その神がわたしを愛…

神はわたしを愛しているか

わたしの主権が絶対的な他者である神に委ねられることによって、救いの道はいよいよ大詰めのフェーズに入ってゆきます。 ひょっとすると、主権というよりも自然権といった方が言葉づかいは正確かもしれません。ホッブズが『リヴァイアサン』において論じてい…

絶対的膈時性について

「わたしが神に呼びかけるときには、つねにすでに、神のほうから呼びかけられてしまっている。」すでに数回にわたって論じてきたこのモメントを、私たちは絶対的膈時性と呼ぶことにしましょう。 絶対的膈時性という概念は、わたしが乗り越えることのできない…

「アーメン、まことにその通りです」

「心の最深部は生きている神に直接つながっており、神はそこから私たちに、ずっと呼びかけつづけている。」前回の記事では、デカルトとカント、それにフッサールの議論を取りあげましたが、今日は日本の中世を生きた親鸞の思考を取りあげつつ、このテーゼを…

わたしの心、外部への開放系としての

「心の最深部は生きている神に直接つながっており、神はそこからわたしたちにずっと呼びかけつづけている。」救いの道がわたしたちに提示しているのは、このような途方もない可能性にほかなりません。 単なる観念や理念ではない、生きている神が心のうちでわ…

呼びかけることは、呼びかけられること

わたしがわたし自身にたいして絶望しきって、生きている神に呼びかけるとき、根本的な転換が起こり、わたしは生まれてはじめて、本当の意味で神に出会うことになります。 これは、ある種の恐れとおののきを伴わずにはいない瞬間です。なぜなら、わたし自身が…

絶望のリミット

救いの道において見いだされる真のわたしとは、悟りの道における永遠のわたしとは異なり、どこまでも弱い存在です。わたしなるものは、あらゆる弱さに、とりわけ死の次元に避けようもなくさらされています。 神に呼びかける以前のわたしは、自分の内にあるこ…

真のわたしについて

呼びかけによって無意識の真理があらわになるとき、ある重大な転換が起こることになります。 それは、いまや神を求めることになったわたし自身が、神の存在によって揺さぶられるということです。それまでのわたしには、まさか自分が神のことを呼び求めること…

呼びかけは無意識の真理をあらわにする

死を前にしての他なるものへの呼びかけは、最後のところで、人間ではないものに救いを求めることになります。これは、呼びかけを行うわたし自身にとってさえも大きな驚きをもたらさずにはおかない瞬間です。 わたしは、気がつくと神に向かって呼びかけはじめ…

呼びかけの瞬間

救いの道は、死を前にしたわたしが、救いの可能性を呼び求めるところからはじまります。 概念や直観の次元とはことなり、呼び求め、あるいは呼びかけの次元は、哲学によって扱われることがあまりありません。それはおそらく、この次元が、人間の生の最もプリ…

絶対的に他なるもの

概念と直観によってたどりつく永遠なるものにおいては、自己性と他者性が混在しています。このものは、わたしを超えているのと同時に、わたしの刻印をいくぶんか帯びているといえる。 「そうではない。わたしとは幻想であり、永遠なるものは、わたしとは何の…

救いの道へ

悟りの道による解決をあきらめながら、それでも死とともにわたしが消滅することに耐えられないとするなら、もう一つしか道はありません。それは、わたしではない他者に、死後の救いを求めることです。 この道を、救いの道と呼ぶことにしましょう。この道は、…

愚かさに甘んじる

悟りの道は、概念と直観により神秘のうちへと入りこんでゆくことで、死を乗り越えようとします。今回は、こうしたアプローチにたいする自分の立場を確定しておくことにします。 悟りの道を歩む探求者がたどりつく、あの永遠なるものについては、僕はその存在…

永遠なるもののあいまいさ

「永遠なるものの純粋なまなざしとなって、すべてを知的に直観すること。」悟りの道の終着点にたどりついた探求者は、これで死を乗り越えることができたのでしょうか。 確かに、そのようにも見えます。けれども、その一方で、ここには決して無視できないあい…

純粋なまなざし

「わたしはそれだ。永遠なるものだ。」探求者は概念と直観によって、悟りの道の終わりにたどりつきます。それは、まるで閃光のようにして、時を超えるものの認識(「グノーシス」)が輝きだす瞬間です。 「本当にそんなことが、ありうるのだろうか。」それは…

概念と直観によって

「本当は、永遠なるものだけが存在する。」悟りの道ともいうべき考え方は、つまるところ、この主張に要約されます。 わたしは存在するのか、しないのか。そして、永遠なるものがどのようなステータスを持つものであるのかといった点について、この道には、実…

悟りの道

人間はおそらく、死が完全な無を意味するということには耐えることができません。哲学者や宗教者たちは、これとは違った答えを求めて探求をつづけてきました。 さて、細部をすべて切り捨てて、事柄の本質だけを抜きとってくるならば、彼らの探求の多くは、あ…

誰も、無になることには耐えられないはず

「ひとは、死んだら無になるのか。」この問いについて考えるためには、人間についての実際の観察が役に立つかもしれません。 「死んだらすべて終わりだ」と考えている人の数は多いですが、僕のこれまでの体験からすると、そういう人の中でふだんから死のこと…

ひとは死んだら無になるのか

「ひとは死んだらどうなるのか。」この問いにたいする答えの中で最初に取りくんでおきたいのは、「ひとは死んだら無になるのだ」というものです。 死んだのちには、完全な無が待っている。自分という存在さえもが、あとかたもなく消え失せるのだ。そう考えて…

青春の終わり、哲学のはじまり

哲学者はかつて、力能や差異について考えていました。かれにとっては、何かを強く追いもとめること、欲望するということが、なにかとても神聖なことのように見えることもありました。 純粋なまなざしのもとで眺めるとき、世界はかぎりなく透明で無垢な姿をた…

哲学者がまだ若かったとき

ソクラテス、デカルト、ヘーゲルとつづけて書いていたら、終わりの時代について語るという、当初の目的からは外れてしまいました。けれども、久しぶりに哲学がもたらす純粋な喜びについて触れることができたのは、本当に嬉しいことでした。 最近あらためて気…

生命と霊

ヘーゲルの哲学を眺めているときに私たちが最も驚かされるのは、この人の書くもののうちには、あふれんばかりの生命の感覚がみなぎっているということです。 個人を超えて人類そのものを突き動かしてゆく、生き生きとしたイデーの運動。この運動は、歴史上の…

ヘーゲルと近代

三人目に取りあげたいのは、ヘーゲルです。さて、この人の生き方と哲学のあり方は、すでに取りあげたソクラテスやデカルトのそれとは、大きく異なっているといえるように思います。 ソクラテスやデカルトの場合には、私たちは、明確な輪郭をもった一人の人間…

絶対に動かしえないもの

哲学にたいするデカルトの貢献の中で最も大きなものは、いうまでもなくコギトの発見でしょう。今日は、この点のみに話をしぼって考えてみることにします。 わたしはすべてのものごとを疑うことができるが、疑っているわたしそのものの存在については疑うこと…

デカルトと近世

二人目に例に挙げたいのは、近世という時代を生きたデカルトです。 デカルトが生きたのは、人類の理性が若々しい目覚めを経験していたころです。当時のヨーロッパの人びとは、数学と実験によって自然の世界を理解することができるという発見に、胸をおどらせ…

何よりも美しいもの

ソクラテスが生涯をかけて探し求めたのは、魂の美であったといえるように思います。 古代のギリシア人たちは、熱情をこめて美しいものを求めつづけていました。そうした時代の流れに応答するようなかたちで、ソクラテスは言いました。「アテナイの諸君。最も…

ソクラテスと古代

前回の記事で用いた「終わりの時代」という表現について、より詳しく掘り下げてみることにします。 「生きることのよさを目ざして考えること。」哲学をこのように定義するならば、哲学は時代の流れとは無関係なものであるようにも見えますが、どうも、実情は…

最もよく隠されているもの

前回までの議論に、すこし補足しておくことにします。 「神が、私たちのひとりひとりを愛している。」このことがもしも正しいとしたら、ここからただちにひとつの帰結が導かれます。 それは、「神の愛は、まだこの世において隠れたままになっている」という…