イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2021-01-01から1年間の記事一覧

哲学の問いとして、「自己の問い」を問う:2021年の探求の終わりに

今回の記事で、2021年の『イデアの昼と夜』の探求も終わりである。来たるべき次の年に向けて議論を整理しつつ、私たちの探求がこれから向かってゆく先を確かめておくこととしたい。 論点: 「死への先駆」によって啓示される本来的実存の可能性とは、「現存…

考える人は、自由そのものであるような〈生のかたち〉を探し続けている:『存在と時間』における「先駆」概念は何と向き合い、どこへ向かってゆくのか

私たちは、「ホモ・サケル」の概念や、反出生主義の問題といった主題を通して、「現代における生」がはらんでいる問題についてすでに見てきた。今や、『存在と時間』の「死への先駆」の方へと立ち戻って、再び検討を加えるべき時である。 「死へとかかわる存…

反出生主義に関する二つのテーゼ:ハイデッガーとアガンベンを通して考える

問題提起: 後期ハイデッガーの「存在から見捨てられていること」やジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」といった概念は、反出生主義の問題を考える上でも有効な手がかりを与えてくれるものなのではないだろうか。 私たちの時代のグローバル秩序は、「…

ホモ・サケルの時代:ジョルジョ・アガンベンと『存在と時間』、あるいは、「部屋に閉じこもって病んでいること」の根底にあるもの

「存在から見捨てられていることSeinsverlassenheit」の時代としての現代とは、「生から見捨てられていること」の時代でもあるのではないか。このような問いかけのうちに入り込むとき、私たちはこれまで論じてきた『存在と時間』の議論に対して、より深い所…

「現代とは『生から見捨てられていること』の時代である」:後期ハイデッガーの思索から『存在と時間』へ

〈ある〉の意味が失われているという「存在忘却」の現象はその根源をたどるならば、「実存忘却」とでも呼ぶべき事態にまで行き着くのではないか。人間存在にとって「死のうちへと先駆すること」が持っている意味について考えるために、この論点を、ハイデッ…

「呼吸をすることさえも、忘れるかのようにして……。」:「先駆」とはまずもって、生きることの取り戻しを意味する

論点: 実存の本来性を可能にするはずの「死への先駆」は、現存在であるわたしが死の可能性に関して現実性の次元に巻き込まれることなく、「可能性を可能性として耐え抜くこと」を要求する。 この論点は、『存在と時間』において提示されている人間存在の姿…

「可能性のうちへと先駆すること」:哲学はひたすらに演劇的でパトス的であるような自己投企のために、イデーを練り上げる

私たちの実存論的分析はこれまでの歩みを経て、「死の完全な実存論的概念」に到達した。 死の完全な実存論的概念: 死とは、現存在であるところの人間が有する最も固有で、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実であると同時に未規定的な可能性である…

哲学とは、絶えることのない「自己との対話」に他ならない:実存論的分析の歩みから垣間見えてくる、思索者のエートス

私たちはこれまで、「死へと関わる存在」の日常的なあり方について見てきた。今や、ここから遡って死の実存論的概念を完成させることによって、「死へと関わる本来的な存在」の方へと進んでゆくための準備を完了させる時である。 これまでの分析において、死…

「人間は、木や石ではないのであってみれば……。」:『徒然草』の著者が伝えたかったこと

「死へと関わる存在」の日常的なあり方という問題についてはもう少しだけ、一つのテクストを参照しつつ考えておくことにしたい。この論点を掘り下げるにあたっては、『徒然草』第41段で語られているエピソードが教えてくれることは少なくないように思われる…

「メメント・モリ」は語られ続ける:生の日常と哲学の問い

「死へと関わる本来的な存在」の可能性を問うためには、その前提として、「死へと関わる存在」の日常性におけるあり方を見定めておく必要がある。 論点: 日常性において、私たち人間は〈ひと〉として、「死へと関わる存在」について語ることを避け、それを…

「実存の本来性」をめぐる問題圏の射程:プラトンやアリストテレスはなぜ、〈アレテー〉についてかくも熱心に語り続けたのか

「人間が死ぬことの可能性へと投げ込まれているという剥き出しの事実は、根本的情態性である不安によって開示されている。」前回に取り上げたこの論点からは、この後の探求の道行きそのものを突き動かしてゆくともいえる、次のような問いが浮かび上がってく…

「形而上学的な不安」:この「不安」の概念をそれとして仕上げることが、実存の本来性を捉えるための不可欠な条件をなす

前回までの探求において判明したのは、死とは人間にとって「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない可能性」であるということだった。ところで、この「可能性の中の可能性」の存在の仕方については、次の論点が特に重要になってくる。 論点: 現…

単独者であることの務めを、他者と分かち合うこと:あるいは、十返舎一九はいかにしてこの世を去っていったか

死ぬことの可能性は、実存、すなわち「可能性に関わる存在」を生きる人間存在の、その極限の姿を指し示す。次の課題は、この可能性がいかなる可能性であるのかを、存在論的な仕方で見定めることである。死の実存論的概念を構築することに向かって、ハイデッ…

キルケゴールからハイデッガーへ:実存のリアルは、「可能性へと関わる存在」として人間に差し迫っている

ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、「死へと関わる存在」をめぐる議論の方へと戻ってゆくことにしよう。 「生をはなれることを医学的-生物学的に探究することで、存在論的にも意義を有しうる成果を獲得することが可能であろうが、それは、死に…

2021年、哲学の現在はどこにあるのか:マルティン・ハイデッガーとエマニュエル・レヴィナスの思索を通して、見えてくるもの

存在問題を問うという点に関しては、もう一つの補足をしておかなければならない。今回の記事の内容は『存在と時間』の読解の範囲を超えて、もう少し広い問題の圏域を取り扱うことになるが、哲学の歴史を顧みつつこのブログの目指すべきところを見定めたいと…

哲学の歴史にとって、1927年とはいかなる年であったか:『存在と時間』と私たち

論点: マルティン・ハイデッガーによって「死へと関わる存在」のモメントと共に「存在の問い」が提起されたことは、哲学の歴史そのものにとって無視することのできない意味を持つのではないだろうか。 私たちはここで、哲学の歴史を〈存在〉の問題圏を軸に…

「存在の意味への問い」:Sein zum Todeの概念において、賭けられているもの

論点: 死の現象は『存在と時間』が提起している「存在の問い」そのものにとって、根源的というほかない重要性を持つものである。 ハイデッガーの言葉を借りるならば、死ぬこととは人間にとって、現存在することの「不可能性の可能性」を意味している。すな…

「わたしが存在する」という事実の、存在論的な射程について:パスカルが、デカルトにあくまでも抗い続けた理由

現代の哲学書である『存在と時間』が、近代の哲学に対して立っている歴史的な位置という問題については、もう少し掘り下げて考えておかなくてはならない。デカルト『省察』のよく知られた箇所を、ここで思い起こしてみることにしよう。 「それゆえ、すべての…

『存在と時間』の根本テーゼ「実存の各自性」:「現存在であるところのわたしは、他の誰でもない『この人間』としての生を生きることのうちへと呼び出されている」

「死はそのつど私のものである」という『存在と時間』第47節の表現は、この本自体の道行きを考える時には、きわめて重要な意味を持ってくる。なぜなら、この本の探求が本格的に開始される第9節の時点において、ハイデッガーはすでに、次のように書きつけてい…

あらゆることが代理可能な世界において、決して代理できないこと:Sein zum Todeから見えてくる、私たちの生の真実

前回に見た「他者の死を共に死ぬことの不可能性」という論点から、さらに先に進んで考えてみることにしよう。 「[…]代理可能性は、現存在をおわりに到達させる存在可能性、そうした可能性として現存在にその全額を与えるような存在可能性を代理することが…

「わたしが、去りゆく『その人』と決して分かち合えないこと」:共同相互存在の臨界点

現存在、すなわち人間の「死へと関わる存在」は、どのように規定されるのだろうか。この点を明らかにするにあたってハイデッガーがまず指摘するのは、次の論点にほかならない。 論点: 私たちは人間の「死へと関わる存在」を解明するために、他者たちの死と…

Sein zum Tode:反対論への回答

17世紀の哲学者であるスピノザの主著『エチカ』の第4部定理67は、次のようになっている。 『エチカ』第4部定理67: 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。 …

エピクロス派の人々による反対論:「そもそも、死について深刻なことを考えるということ自体がナンセンスなのではないか?」

それにしても、私たちは死というこの主題に対して、どのようにして接近を試みることができるだろうか。まずは、ハイデッガーが指摘している次の論点を確認するところから、考え始めてみることにしよう。 「現存在が存在者として存在しているかぎり、現存在は…

「非常にセンシティブで、慎重を要する問題」:「死へと関わる存在」の分析へ

実存の本来性の圏域へと踏み入ってゆくにあたって最初に問われるのは、人間の「死へと関わる存在」に他ならない。 論点: 『存在と時間』の第二篇第一章のタイトルは、「現存在の可能な全体的存在と、死へとかかわる存在」となっている。 哲学史に残っている…

「本来性から時間性へ」:『存在と時間』におけるキリスト教哲学の痕跡

実存の本来性についての分析を進めてゆく中で、私たちが読解に取り組んでいるこの本のタイトル『存在と時間』が、なぜ「時間」の語を含むのかも明らかになってくる。私たちは、この点についても先の見通しをつけておくことにしよう。 論点: 『存在と時間』…

「理解」の究極的な形としての、先駆的決意性:実存の本来性の分析へ

私たちは「不安」の現象の分析を終えて、いよいよ実存の本来性の圏域に踏み入ってゆこうとしている。「死への先駆」と「良心の呼び声」の分析を開始するにあたって、まずは前もってこれから先の見通しを得ておくことにしたい。 論点: 「死への先駆」と「良…

『ゴルギアス』が語ること:「不安」についての分析の終わりに

不安の現象を通して、現存在であるところの人間の根源的なあり方はついに、「気づかい」として規定されることになった。この現象についての分析を締めくくるにあたって、次のような問いを考えておくことにしたい。 問い: 「あなたは『不安』の奥底にまで突…

人間の存在はいまや、「自己への配慮」として露呈される:『存在と時間』の根本概念「気づかい Sorge」

これまで不安の現象について見てきたところから、ハイデッガーは、現存在であるところの人間の存在を「気づかい」として規定することへと向かってゆく。その道程を、ここで簡潔に再構成しておくことにしよう。 ① 人間は、不安からは逃れることができない。忘…

生はその秘密を、「恐るべきもの」の後ろに隠す:「自由のめまい」としての不安

不安の気分をめぐる分析は、「可能性に関わる存在」としての人間の姿を浮き彫りにしつつある。しかし、このことは、生の経験それ自体と、それを描き出す実存論的分析の間に結ばれる、一筋縄ではゆかない関係の存在を指し示さずにはおかないのではないか。 不…

「可能性に関わる存在」:キルケゴールの例を通して

不安の気分は、人間の「剥き出しの生」をそれとして開示する。しかし、不安が不安がるとは一体、実存論的-存在論的に見るならばどのような事態であると言えるのだろうか。この点をさらに解明するために手がかりとなるのは、不安とは、不気味なものの「予感」…