2021-06-01から1ヶ月間の記事一覧
「理解」については、「理解の投企性格」という論点を掘り下げておかなければならない。 現存在、すなわち人間は「理解する」という仕方で世界のうちに存在している。彼あるいは彼女には、歩き方、椅子の座り方、キーボードの打ち方etc……が「わかっている」…
「理解」と可能存在、そして、これらの概念との密接なつながりのうちでしか語られえない「実存」の問題はある意味で、古代ギリシアで開始された哲学の伝統の根幹に関わっていると言えるのではないか。 ソクラテスのことを考えてみよう。ソクラテスは、それぞ…
「理解」について最も重要な論点とは、この契機が可能存在という、人間の根源的なあり方を指し示している点である。 「現存在とは、なにかをなしうることをさらについでに所有しているような、目のまえにあるものではない。現存在は第一次的に、可能存在であ…
『存在と時間』における「理解」の概念については、ハイデッガー自身は慎重に黙して語っていないとはいえ、身体性の問題が深く関わってくることを、議論をさらに進める前に指摘しておかなくてはならないだろう。 現存在、すなわち人間は、理解するという仕方…
世界における物、あるいは道具のあり方について改めて考えなおすところから、『存在と時間』で語られている「理解」という現存在(人間)のあり方に迫ってみることにしよう。 たとえば、椅子である。日常生活の中で、私たちは椅子を単なる物体の塊として経験…
「情態性」に次いで内存在のあり方を規定する契機の二つ目は「理解」である……が、『存在と時間』における「理解」の概念について論じ始めるにあたってまず指摘しておかなくてはならないのは、ハイデッガーがこの「理解Verstehen」なる語を、普通の意味とはか…
情態性について論じ終えるにあたって付け加えておかなければならないのは、ハイデッガーは気分なるものの押しとどめがたい執拗さについて語りつつも、人間がそれに対して抵抗してゆく可能性についても指摘しているという事実である。 「現存在は事実的に、知…
情態性と被投性の概念について、もう少し掘り下げて考えておくことにしよう。 私たちは自分自身がその時に感じている気分について、あまり注意を払わないまま済ましてしまうことがある。それどころか、嫌な気分や不機嫌な気分を感じている時には、何とかして…
論点: 情態性がむき出しにするのは、すでに存在してしまっており、存在しなければならないという、人間の裸形の事実性にほかならない。 良い気分、あるいは上機嫌の気分を感じている時には、ひとはわざわざ「わたしはなぜ存在しなければならないのか」と自…
内存在を構成する三つの契機のうちの一つ目が、「情態性」である。これは普通の言葉でいえば、気分という現象に対応するものである。 気分に関する根本テーゼ: 気分は現存在、すなわち人間のそのときどきの存在がどのようなものであるかを、その度ごとに開…
私たちは、現存在、すなわち人間という存在者の根本体制であるところの「世界内存在」に関して、すでに「世界」については論じ終えた。私たちは次に、「内存在」の解明に移ることにしよう。その解明がなされた後にこそ、『存在と時間』において語られている…
私たちは前回までで、『存在と時間』の世界論については論じ終えた。今や私たちは現存在、すなわち人間について、世界内存在という語を自由に用いることができる。人間は、世界内存在する。すなわち、人間は世界のうちで、そのつど常にすでに適所性のネット…
『存在と時間』の世界論を論じ終えるにあたって最後に指摘しておきたいのは、ハイデッガーが現存在(人間)と世界との関わりについて語るにあたって、「世界との親しみ」という表現を用いているという事実である。 すでに論じたように、私たちが日常のうちで…
日常における物の存在は、現存在、すなわち人間が人間として存在することを目立たないところから支えている。『存在と時間』の世界論を締めくくるにあたって、私たちは、このような見方に対する次のような疑義に向き合っておかなくてはならない。 疑義: こ…
ハイデッガーとともに、日常における物の存在を問う私たちの探求は、その最内奥に達しつつあるようである。 物あるいは道具は、それらのものが作り上げている壮大な連関であるところの、適所全体性のうちで出会われる。この適所全体性こそが、世界が世界であ…