2019-05-01から1ヶ月間の記事一覧
引き続き、「コギト・エルゴ・スム」の掘り下げにいそしむことにします。 純粋意識としてのコギト: 「コギト・エルゴ・スム」において見出される「わたし」とは、少なくともその最初のモメントにおいては、「この人間」としての「わたし」ではない。 すべて…
命題: わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。 フィクションに関する前回の探求からの続きになりますが、上の命題に対してもう一つの命題を対置しておくことにします。 反対命題: わたしとは、純粋意識である。 しばらく、こちらの反対命題につい…
今回の話とは関係ないようでいてこの後すぐ戻るから、どうか聞いてほしい。僕は最近、思ったんよ。 「……何ですか?」 いやね、他の人からしたらほんとどうでもいい話だとは思うんだけどさ、でも同じ哲学の道をゆく猛者なら多分わかってくれるはず。人生がこ…
まずは、今回の探求で掘り下げてみたい命題を提示しておくことにします。 命題: わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。 前回の探求に引き続き、筆者自身の例を取るならば、筆者は竹野内豊でもなければ、ジャスティン・ビーバーでもなく、philo198…
今日から予定通り「わたしとは何か」という問いに取り組むことにしますが、最初に次の点を確認しておくことにします。 自己への「立ち返り」: 「わたし自身」なるものに立ち戻ること自体が、精神にとってひとつの達成である。 ほとんどの子どもは、「自分と…
今回の探求の終わりに、真理に関する先人の一見解を参照しておくことにします。 アリストテレスによる真理の定義: あるものをあると言い、あらぬものをあらぬものと語るのが、真理である。 あるものをあらぬものと見なし、あらぬものをあると語るのがフィク…
問題提起: デカルト的自己観の受け入れから帰結するのはつまるところ、現実からのデタッチメントという事態に他ならないのではないだろうか。 わたしを純粋意識として捉えるということは、いわば自己を純粋なまなざしとして捉えることに他なりません。それ…
トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたしの身体から分離する事ができない。 わたしを純粋意識として捉えるデカルト的自己観とは異なって(前回の記事参照)、この自己観によるならば、わたしが「この人間」であることは…
問題の根幹には、わたしなるものをめぐる二つの考え方の相克が横たわっているように思われます。 わたしをめぐる二つの見解 ①デカルト的自己観: わたしとは、純粋意識である。 ②トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたし…
私たち自身の実存に関する一考察: 苦しみの存在は、人間が「この現実」のうちに生きているという根源的な条件を明るみに出す。 苦しみにおいて、私たちはしばしば「この現実」そのものから逃れようとしますが、「この現実」なるものは、忘れようとしても忘…
私たち自身の実存に関する一事実: 私たち人間はそれぞれ、たった一つしかない「この現実」を生きている。 たとえば、このブログを書いている筆者自身はいま、33歳の男性としてこの文章を書いています。 いま「男性」と書きましたが、筆者も他のすべての人間…
フィクションの「有益性」については他にもさまざまな視点から考察を加えることができそうですが、そろそろ、ハードな反フィクション論の側の検討に戻ることにします。 ハードな反フィクション論の中核: フィクションは、人間に「この現実」の重みを見失わ…
フィクションの有益性②: フィクションは、鑑賞者の人格形成に非常に大きな役割を果たしうる。 筆者自身の例で言えば、筆者は十代の頃に読んださまざまなマンガから、極めて多くのことを学んだように思います。その中から数例を、ここで思いつくままに挙げて…
フィクションに関する問題提起: フィクションに気晴らしとしての価値があるとして、果たして、フィクションの価値はそれに尽きているのだろうか。 フィクションが場合によってはこの上ない気晴らしということは、ほとんど論証を要しません。しかし、作り手…
気晴らしという行為について、もう少し掘り下げて考えてみることにします。 気晴らしという行為の本質: 気晴らしとは、実存の一時的な忘却である。 すでに述べたように、気晴らしによって面倒な物事のすべてを忘れることは、人間にこの上ないリフレッシュの…
前回に引き続き、反対論の検討から考察を始めてみることにしましょう。 ハードな反フィクション論に対する反対論: フィクションは、何らかの点で人間に対して有益な役割を果たしている。 まず最初に思いつくのは、フィクションは人間にとって、気晴らしとし…