イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2019-01-01から1年間の記事一覧

幸福と身代わり

論点: 他者であるあなたもまた、わたしと同じように、人間であることの有限性を免れえないであろう。 わたしは考える意識であるのと同時に、他の誰でもない「この人間」でもある(二つ折れの与え)。同じように、他者であるあなたもまた、わたしを超絶した…

超絶と証言

論点: 他者の存在はわたしを超絶しているが、それでも、何もかもが知りえないというわけではない。 ここからは「存在の超絶」を前提とした上で、他者について知りうることについて探ってみることにしたい。というのも、他者の超絶という事態のうちに含まれ…

モラリストの危険

「存在の超絶」からの論理的帰結: 他者についての知は、原理的に言って不完全なものであることを運命づけられている。 他者の意識は、わたしの意識を超絶したところに「存在」する。どんな知も、わたしとあなたの間のこの隔たりを完全に埋めあわせることは…

絶対知の不可能性

論点: 他者の意識は、論証も証明されることもなしに厳として存在し続けるであろう。 他者であるあなたが哲学的ゾンビ(前回までの記事参照)ではないということは、理論的には証明できない。しかし、その証明不可能性にも関わらず、あなたが存在するという…

乗り越え不可能な隔たりについて

補助的考察: わたしとあなたには、互いがそれぞれ哲学的ゾンビではないことを「証明」するためのいかなる手段もない。 もちろん、わたしとあなたには会話することで、お互いに哲学的ゾンビ(クオリアを持たない「生ける屍」)ではないであろうとの見込みを…

いわゆる哲学的ゾンビについて

存在の超絶: 他者の意識は、あらゆる論証や証明の不在にも関わらず、厳として存在する。 他者であるあなたの意識は、わたしには直接に知りえない。したがって、あなたの意識なるものが存在するかどうかも、厳密に言えばわたしには決してわからないのである…

存在の超絶と非-現象学

論点: 「存在の超絶」は意識の彼方を指し示す限りにおいて、非-現象学を要求している。 他者の意識は、わたしの意識からは隔絶して存在している。他者である限りの他者は、その本質から言って、決してわたしの意識に現れることがないのである。 他者である…

存在の超絶

存在の超絶: 他者の意識は、わたしのあらゆる類推と想像を越えるところに存在する。そして、わたしには厳密に言うならば、決してあなたの意識に到達することはできない。 この「存在の超絶」からは、数多くの論点を引き出すことができそうである。たとえば…

名前の正しさをめぐる議論

重要な論点なので、ここは丁寧に論じておくこととしたい。 論点: 哲学とは、存在を言語によってそのあるがままに言い表そうとする、終わることのない営みである。 レヴィナスのような哲学者であれば、上のような哲学の定義に対しては強く反対することであろ…

「存在する」という語の使用をめぐって

ここで少しだけ立ち止まって、改めて考えてみる。 レヴィナスが他者について「存在するとは別の仕方で」という表現を用いたのは、なぜだったのか。すでに見たように、そこには他者の超越というモメントにおけるその超越性を、決して見落としてはならないと彼…

レヴィナスへの疑問

論点: 他者の意識は、わたしの意識からはどこまでも隔絶したところに「存在」する。 エマニュエル・レヴィナスは他者のことを、「存在」ではなく「存在するとは別の仕方で」として捉えようと努め続けた。それは、わたしに対する他者の超越の、その超越性に…

認識論の挫折

論点: 他者の存在は、明証性に依拠して認識の生を送るコギトにとっては、ある意味では隠れたものであり続けるであろう。 自明ではあるが、重要な事実から考えてみることにしよう。わたしにとってはただ、わたしという意識だけが与えられているのであって、…

形而上学と倫理、あるいは、独我論の崩落

論点: 形而上学と倫理とは一つである。 隣人を自分自身のように愛するって、一つには、相手をそのあるがままの姿にも関わらず愛するってことである。 これって結局は、相手の存在をそのまま受け入れるってことではないか。そして、そのことは、つまるところ…

存在と純粋愛

論点: 「存在のみ」の次元は、純粋愛の問題を提起せずにはいないように思われる。 あらゆる力能を奪われ、ただ生きている、ただ存在しているという状況に置かれた時、人間は、次のような問いに直面せざるをえないのではあるまいか。 問い: 純粋愛は存在す…

現代のカリクレス

論点: 哲学は存在忘却が存続する限りにおいて、力能との闘いを停止することはないであろう。 「できる」は、もっと言えば「する」は、この世の至上の関心事である。しかし、哲学はそれよりも先に、無力なる「ある」の方にこそこだわり続けねばならぬ。 「コ…

力能と存在忘却

そろそろ、話も大詰めに差しかかってきた。 論点: 力能の問題は通常、二つ折れの与えに対する一種の遮蔽幕として機能している。 二つ折れの与えとは、存在の与えである。だが、この与えがまさしく「与え」として与えられていることは、普段は忘れ去られてい…

人間性なる概念をめぐって

二つ折れの与え: 意識としてのわたしの与えと「この人間」としてのわたしの与えとは、二つでありながらひとつながりであるような出来事の生起として与えられる。 当たり前ではあるが、重要な話である。哲学とは、自明には見えるけれども根源的な事柄を、ど…

二つ折れの与え、あるいは、人間になるということ

ふたたび、純形而上学的な方面に話を戻すこととしたい。 論点: わたしが他の誰でもないこのわたしであるという事実は、二つ折れの与えという出来事として生起する。 すでに論じた二つの与えについて、思い起こしてみる。 1.意識の与え、あるいは、思考する…

存在することの、否定しがたい重みについて

論点: 人間の不幸の少なからぬ部分は、現実性という様相を軽視するところから生まれてくるのではないか。 当たり前にも聞こえるかもしれないけど、現実っていうのは非常に大切なものである。しかし、現実というのは、頭の中で思い描いているヴィジョンや理…

現実性の概念について

論点: 「この人間」の与えにおける根源的事実性は、現実性とも言い換え可能な表現である。 そうなのである。「わたしは他の誰でもない、『この人間』である。」そうなのよ。何言っても、全部捨てたくなって絶望しても、結局「このわたし」でやってくしかな…

「この人間」であることの受苦

論点: 現代の人間が向き合わされているのは、「この人間」であることの受苦という問題なのではないだろうか。 「現代の」という表現を付け加えたのは、反出生主義のこととか、その他色んな事情があるわけだけど、ここで論じたい問題はおそらく、この世を生…

絶対確実性と根源的事実性

1.意識の与え、あるいは、思考するわたしの与え。(絶対確実性) 2.個人の与え、あるいは、現実の中で生きる「この人間」の与え。(根源的事実性) この二つの与えについては、まずは次の点を確認しておくこととしたい。 論点: 絶対確実性の真理と根源的事…

コギトへの注釈と、「この人間」の与えについて

「コギト・エルゴ・スム」に関して言えば、哲学的には次のような二つの与えを区別できるように思われるのである。 1.意識の与え、あるいは、思考するわたしの与え。(絶対確実性) 2.個人の与え、あるいは、現実の中で生きる「この人間」の与え。(根源的事…

「唯一、絶対に確実な真理」

論点: 「存在のみ」の次元は、「この人間」の与えという出来事に結びついている。 この辺りのことに関する事情は、すでに一度『「わたし」とは何か』で論じたので、もしあれならそちらも参照していただけるとありがたいのだが、ここではそこでの議論を、新…

哲学は苦しみから

論点: 人間は生涯のどこかの時点で必ず、「存在のみ」の次元に向き合うことになるのではないだろうか。 議論が相当くどくなってきている気もするが、非常に重要なところなので入念に議論を重ねておきたい。しつこくてごめん。しかし、哲学するにあたっては…

力能の喪失と、その極限としての死について

問い: 人間は、何らかの意味で有能でなければ存在していてはいけないのか? 力能があるっていうことについては、人間の世界ではさまざまな可能性がありうる。例えば、頭がいいとか、スポーツできるとか、人付き合いがうまいとか。容姿がカッコいい/かわいい…

哲学と黙示、あるいはソクラテス的無能について

論点: 現代の人間は、「あらゆる力能から切り離された、存在のみの人間」という形象に直面しているのではないだろうか。 ここには、根源的な問いがある。すでに書いたように、僕はこの問いの背景として近代の、すなわち、理性の力能の時代の終わりという歴…

現代と反出生主義雰囲気の問題

結局、近代という時代が突き詰めたのは、次のようなアリストテレス的人間観だったのではなかろうか。 アリストテレス的人間観: 人間とは、理性的動物である。 理性を持っている、すなわち、ものを考える力がある。なんだかんだ言っても、これが人間をほかの…

理性の自己喪失

論点: 今日、哲学はおのれ自身の無能を苦しんでいるのではあるまいか。 たとえば、デカルトをはじめとする17世紀近世哲学の時代には、哲学って、もっとずっと有能な何かに見えていたはずである。ていうか、哲学者がXY座標平面とか微分法とかを発明したりも…

力能と無能のあいだ

しかし、存在の対話と力能の対話というこの論点は、おそらく一筋縄ではゆかないものである。 論点: 哲学は、本源的には存在の次元に関わるとはいえ、力能の次元に関わらないというわけでは決してない。 たとえば、デカルトには『精神指導の規則』というテク…