イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

倫理の根源へ

倫理についての考察のおわりに

前回までで、私たちは倫理についての考察を終えました。全部で2カ月以上かかってしまいましたが、読んでくださった方は本当にありがとうございました。 気がつけば九月になり、助手のピノコくんもフランスに旅立ってしまいました。僕自身もこの八月で大学を…

義なる神

内在的超越と絶対的超越という区別は、倫理の領域のみならず、超越の次元に足を踏み入れる哲学にとっては、あらゆる分野において重要なものであるように思われます。 こうして、私たちは神による掟というイデーについて、一通りの検討を加えました。倫理法則…

内在的超越と絶対的超越

良心の呼び声という現象には、身近なものでありながらも、どこかこの世を離れているようなところがあります。 そのため、この現象が哲学的分析の対象となることは、あるにしても稀だったと言ってよいでしょう。この点については、プラトンがこの現象にたいし…

良心の呼び声について

「無意識の心の底からの神による呼びかけが、倫理的なものの根源をなしているのではないか。」神による掟というイデーはこうして、倫理的なものの受動的総合というモメントに私たちを導くことになります。 確かに、これが法外な想定であることは間違いありま…

倫理的なものの受動的総合

「呪いはわたしの内にある。」わたしがわたしの自己性の執拗さを認め、自らのうちで働く悪魔的なエゴイズムの根絶不可能性に打ちのめされる時こそ、神による掟という次元が倫理的なものとして立ち現れる瞬間です。 神はいまや、次のようにわたしに言います。…

悪はわたしの内にある

悪魔的なエゴイストのアポリアはある意味で、倫理的なものをめぐる思考につきまとう呪いのようなものです。このアポリアは、すべての根拠を破壊しつくそうと、いつでも私たちを待ち構えているからです。 ここで注意しておきたいことが一つあります。それは、…

カントとレヴィナスへの疑問

先に論じた倫理法則の絶対性というモメントは、いまや神による掟の持つ絶対性として捉え直されることになります。そして、この法則がすべての人間に課されるのは、掟の絶対性のうちに根拠を持つということになる。 普遍性が絶対性によって基礎づけられるとい…

絶対性と普遍性

前回に論じたポイントは重要なので、もう少し掘りさげて考えてみることにしましょう。 倫理のための倫理というイデーにしたがうかぎり、倫理への呼びかけは、次のようなものにならざるをえません。「さあ、みなで普遍的な倫理法則を守ろう。よい世界に向けて…

応答としての倫理

ところで、倫理法則を神からの掟として捉えるときには、倫理の次元そのものが持つ意味も大きく変わってきます。 倫理のための倫理というイデーにおいては、倫理は人間の自発的な意志によって打ち立てられるものでした。これは、カントが意志の自律と呼んでい…

水平軸から垂直軸へ

第三のアプローチは、倫理の根源には神からの命令があるのではないかと考えます。これから、このイデーにしたがって、少し考えてみることにしましょう。 神が、人間たちに向かって掟を与えます。「あなたは、殺してはならない。姦淫してはならない。盗んでは…

第三のアプローチ:神による掟

第三のアプローチは、それまでの二つのアプローチとは違い、人間を超えたところから倫理法則の根源に迫ろうとします。すなわち、この論によれば、人間が法則を守らなければならないのは、それが神による掟だからだというのです。 「なぜ突然に、そんな話にな…

悪と反世界

倫理的な観点からみて「あってはならない時空」のことを反世界と呼ぶことにすると、倫理と悪をめぐる問題の見通しが立ってきます。 悪(他人に害を与えること)は、反世界を世界のうちに生みだします。アウシュヴィッツのようなケースにおいては、この事態が…

アウシュヴィッツから考える

ところで、僕が本格的に絶対悪という問題について考えはじめることになったきっかけは、今年の四月に行った、アウシュヴィッツへの旅行でした。 アウシュヴィッツでユダヤ人たちがこうむった悲惨と痛みについては、また別の機会に考えることにしたいと思いま…

絶対悪の問題

善なるものそのものへの憎しみは、一般に、ふだん表面にあらわれてくることはありませんが、ふとした時に、あるいは、時代が悪いものになってきたときに浮かびあがってきて、人間を引きさらってゆくことがあります。 倫理法則を破るという場合には、少なくと…

善なるものへの憎しみ

よりよい世界、もはや誰も傷つくことのない世界に向かって倫理を引き受ける意志の由を持つことのうちには、人間なるもののの偉大さが示されています。ところが、倫理にとって最も大きな危険が現れてくるのも、おそらくはこのときに他なりません。 倫理のため…

人間の尊厳について

誰も他の人間を傷つけることのない世界をめざして、努力しつづけること。わたしが倫理の原則に従属するということは、そのまま、人類全体に向かっての呼びかけを行うことになります。 ただし、人間には誰ひとりとして、他の人間が倫理法則に従うようにさせる…

理性は世界国家を夢みる

すべての人が自発的に倫理法則にしたがって生きる、目的の国。この国こそが、倫理のための倫理というイデーがたどりつく終着点です。 おそらく、この国は本質的にいって、世界国家であるほかありません。人類のすべてをメンバーとして組み入れる普遍的な共同…

目的の国への呼びかけ

わたし自身が自らの意志にしたがって、倫理法則に従属する。カントはこのことを、意志の自律と呼んでいました。 倫理のための倫理というイデーを追いもとめつづけていた私たちの探求は、ここにいたって、『実践理性批判』におけるカントの探求と大きく重なり…

存在論的なへり下りについて

わたしが、無意識のうちに自分のことを人間以上のものとみなしてしまう危険をつねに抱えていること。また、わたしが、自分でも気づかないところで、わたし以外の人のことを傷つけている可能性がつねに存在しているということ。 わたしというものの存在論的な…

わたしの本当の姿は……。

「革命家は、この世で一種の超人としてふるまうことを望んでいる。」超人と言ってしまうと、映画やマンガの世界にしか関わりを持たないようにも見えますが、この欲望が私たち自身の無意識のうちに潜在していることには注意しておいたほうがよいかもしれませ…

超人への欲望

ラ・マルセイエーズは、革命のために流される血への賛歌です。「殺してでも世界を変える」という革命家の決意は、はたして正当化されうるものなのでしょうか。 私たち人間には完全に正しい裁定を下すことができないのは、言うまでもありません。「フランス革…

おお、ロベス・ピエール

「倫理法則は、わたしが自分自身の特権性を放棄して、自分のことをたんなる人間の一人として扱うことを要求する。」このことの哲学的な帰結は、きわめて重要なものをはらんでいるように思われます。 このイデーにしたがうなら、倫理なるものは、わたしと他者…

倫理はへり下りを要求する

私たちは、絶対性、普遍性、完全性という倫理法則の性質の三位一体を探っている途中で、完全な愛というイデーに出会いました。 このイデーはとても興味深いものですが、今の目的は倫理の根拠を問うことなので、とりあえず倫理の原則のほうに立ち戻ることにし…

完全な愛

倫理法則について、絶対性と普遍性についで三つ目に論じておきたいのは、完全性という性質です。 後ほど詳しく論じたいと思いますが、「あなたは、悪を行ってはならない」という原則のうちには、愛の次元が働いているように思われます。 「あなたは何があっ…

開かれへのベクトル

「あなたは、他者に害を与えてはならない。」この倫理原則の要求の絶対性については、すでに見ました。ところで、この要求についてはまた、普遍性という性質のことも忘れることができません。 倫理法則は、あらゆる他者にたいして守られるべきものです。そこ…

倫理と超越

「あなたは、悪を行ってはならない。」どうやら、倫理なるものは、たとえ現実がどのようなものであろうとも、みずからの要求を果たすように人間に要求してくるもののようです。 この要求はいわば、絶対的なものであるといえます。イデア的なものは、現実のこ…

悪のない世界

倫理のための倫理というイデーにしたがって考えるなら、他者を害することは、悪そのものに他なりません。したがって、この路線でゆくと、すでに見てきた倫理の原則は、「あなたは、悪を行ってはならない」と言いかえることもできることになります。 この現実…

第二のアプローチ: 倫理のための倫理

さて、「利益のための倫理」というイデーとは、そろそろ手を切ることにしましょう。すでに、さまざまな欠陥が示されていますし、何よりも、利益と倫理という言葉では、あまりにも相性がよくないように思われます。 さて、そうなると、倫理の根拠は、次のよう…

平和だったはずが……。

誰もが自分の生活の安定しか考えていないけれどもとても住みやすい、「平和ないい国」。あの悪魔であればこの国について、次のように言うかもしれません。 「すばらしい国に見えるが、わたしにはわかる。この国の人びとは、根本のところでは、わたしの同類だ…

「平和ないい国」

前回は、利益という観点からのみ倫理法則を受け入れるという場合の極端なケースを見てみましたが、私たちは、もう少し控え目なケースを考えてみることもできるかもしれません。 ここでは思考実験として、ある「平和ないい国」のことを思い描いてみることにし…