読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

わたしがあなたを赦すということ   ーヨハネによる福音書を手がかりに

赦しについて考える 哲学
 
 赦しについて考えはじめるにあたって、もう一度、Sさんの問いを掲げておきます。
 
 
 「他の人にたいして赦されえないほどに重い罪を犯したとして、その罪が赦されるとはどのようなことだろうか?罪が赦されるということは、そもそもありうるのか?」
 
 
 Sさんの場合には、お互いを赦しあえないことが問題でしたが、そのことは、この世界で起こる数多くの争いについても言うことができるように思います。調停することの不可能な衝突が起こるときには、その当事者の双方に過ちがあることがほとんどです。まずは、お互いの犯した過失について赦しあうことについて、とくに、わたしがあなたを赦すことについて考えてみましょう。
 
 
 大切な相手とのあいだに争いが起こり、それまで築きあげてきた関係を壊しかねないほどの亀裂が入ってしまうことは、人生のうちには必ず何度も起こることだと思います。そのさいに、相手のことをどうしても赦すことができないのは、「一体、なぜそんなことが言えるのか?なぜ、そんなことができるのか?」と思ってしまうからではないでしょうか。
 
 
 確かに、争いにおいては、相手がとてつもなく不当なことをしているように感じられます。けれども、まずはそうした見方について考えなおしてみる必要があるかもしれません。ヨハネによる福音書の第8章7節では、次のように言われています。
 
 
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
 
 
 姦通の罪を犯した女が引き立てられてきて、「彼女にはどのような罰を課すべきですか」と尋ねられたときの、イエス・キリストの言葉です。律法学者たちやファリサイ派の人びとの、「石で打ち殺すべきではないですか」という意見にたいして、イエスは上のように答えます。 そののち、女にむかって石を投げるものは誰もおらず、一人、また一人とその場を立ち去っていったと、ヨハネ福音書は伝えています。
 
 
 相手にたいして怒り、責めつづける人は、自分のほうにはまったく罪がないと、無意識のうちに思いこんでいるのではないか。もちろん、じっさいの争いにおいてこの認識を生かしてゆくことがとても難しいことは、言うまでもありません。けれども、まずは相手のことを責める態度をやめてみることが、赦しあうために必要であるというのは確かだと思います。
 
 
 
 ヨハネ福音書 イエス・キリスト 赦し
 
 
 
 そうはいっても、相手を赦すことが絶望的なほどまでに難しいケースもあることは否定できません。自分でも相手を赦したいと思っているにもかかわらず、どうしても赦すことができないという場合もあります。長い年月をかけて行われた不当な仕打ちや、どうしても忘れることのできない言葉などが赦すことをはばむときには、一体どうすればよいのでしょうか。
 
 
 よく考えてみると、誰かのことを赦せないときには、その相手は、 自分の想像を超える人間であると感じられています。「こんなことが、まともな人間にできるはずがない。」その言葉の意味するところは、じつは「わたしはあなたのことなど、とうてい理解することができない」ということなのではないでしょうか。そうだとすると、必要なことは、全力をかけて相手のことを理解しようと努めることだと思います。
 
 
 怒らず、呪わず、嘆かず、ただ理解する。ほかの人間を理解するということは、その相手の立場に身を置くということにほかなりません。「わたしとあなたは違う」というポジションを抜けでて、「わたしはあなただ」と言うことができる地点をめざすこと。ある意味で、わたしがあなたを赦すためには、相手が犯した罪をわたしが心のなかで再体験することが必要なのかもしれません。
 
 
 私たちは、自分に害を向けられるさいにはすべての思考を停止してしまいがちですが、あなたを赦すための探求は、その正反対のことを要求します。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というマタイ福音書第5章39節の言葉はあまりにもよく知られていますが、それと同じような態度がここでも求められているといえそうです。
 
 
 表現を変えるならば、このことは、快や不快によってすべてのものごとが測られるエロスの次元を超えて、死の欲動が解放されるタナトスの次元に身を投げることを意味します。そうなると、いま引用したイエスの言葉は、次のようにパラフレーズすることができるかもしれません。あなたは、いつまでもエロスのもとにとどまっていてはならない。本当の命はそこにない。罪によって死ぬことを恐れずに、タナトスの次元にまでゆきなさい。
 
 
 このことはとても困難で、ほとんど人間には不可能なことを要求しているように思えます。僕自身にそんなことができるかについては、まったく自信がありません……。けれども、赦せない相手のことを赦すためには、通常の経験の範囲を超えて、なにか途方もないこと、法外なことが必要になってくるのも確かです。深い淵に身を投げるようにして相手のことを理解しようと努めるとき、ひょっとするとわたしがあなたを赦すことも可能になるのかもしれません。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
[聖書については、日本聖書協会によって出版されている新共同訳から引用しています。
 
 
 それにしても、自分にできないことを書きつづけるのは、心苦しいかぎりです……。卑近な例になりますが、僕は数年前に、大学の近くの定食屋さんで、助手のピノコくんが横でおいしそうにご飯を食べているなか、三十分たっても唐揚げ定食が出てこなかったことがあります。店員さんに聞いてみると、注文を完全に忘れられていたうえに、唐揚げ定食は売り切れになっていました。その時にはとくに何もクレームはつけませんでしたが、その時にはどうしても赦すことができませんでした!僕の唐揚げ定食……。そのさいに、僕が事実を受けとめることができなかったのも、予想を完全に超えていたということがあるように思います。「まさか、頼んだご飯が出てこないなんて。」どんな場合にも、怒らず、呪わず、嘆かず、ただ理解することが必要なのだと、心の底から学ばされたエピソードでした。もちろん、今は赦しの境地に到達しました!
 
 
 タナトスについては、もしよろしければ、こちらの記事から始まるシリーズもご覧ください。]
 
 
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)