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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

「平和ないい国」

 
 前回は、利益という観点からのみ倫理法則を受け入れるという場合の極端なケースを見てみましたが、私たちは、もう少し控え目なケースを考えてみることもできるかもしれません。
 
 
 ここでは思考実験として、ある「平和ないい国」のことを思い描いてみることにしましょう。
 
 
 この国は、とても豊かです。経済も繁栄しており、医療や福祉も充実しています。貧富の差もあまり大きくなく、犯罪もほとんど起こりません。
 
 
 「なんていい国なんだ!」思わず、そう叫びたくなるところです。こんなに住みやすそうな国ならば、さぞかしそこに住んでいる人びとも愛にあふれていることだろうと想像されます。
 
 
 ところが、この国の国民は実際には、ただ自分とその家族の生活の安定のことしかほとんど考えていません。したがって、自分が知らない人と積極的に関わってゆこうとする人の数も、かぎりなくゼロに近いという状況です。
 
 
 ただし、この国の人びとは自分の生活の安定を乱されることが何よりも嫌いなので、他の人たちに迷惑をかけるようなことは決してありません。
 
 
 とうぜん、外国のニュースにもあまり関心をもたず、世界中で悲惨な争いが起きているとしても、この人たちはあまり気にしてはいなさそうです。その一方で、自分たちの生活の安定に直結しているので、自国のニュースにはいつも注意を払っています。
 
 
 
倫理法則 平和ないい国 国民
 
 
 
 さて、この国はたしかに、他の国々にたいして攻撃したりすることはありません。けれども、それはこの国の人びとが平和を強く願っているからというよりも、その方が面倒なことに巻きこまれず、自分たちの生活の安定につながるからです。
 
 
 この国の人びとの、心の内側はどうでしょう。この人たちは、とくに悪い人たちではありませんが、とくにいい人であるわけでもありません。ただ、自分たちの生活の安全と快適さを全力で追いもとめる結果、とてつもなく住みやすい国ができあがっているというわけです。
 
 
 この「平和ないい国」のエピソードは、たとえ表向きは住みやすくていい国であるとしても、必ずしも、そこに住んでいる人のうちに思いやりがあるわけではないということを示しているのではないでしょうか。
 
 
 この人たちのことを倫理的な人びとであると言ってしまうと、何か違うのではないかという気もします。もう少し、この国について考えてみることにしましょう。