内在的超越と絶対的超越という区別は、倫理の領域のみならず、超越の次元に足を踏み入れる哲学にとっては、あらゆる分野において重要なものであるように思われます。
こうして、私たちは神による掟というイデーについて、一通りの検討を加えました。倫理法則は絶対的な他者により命じられる掟となることによって、ふたたび人間ならざるものの領域のうちにその根源が見いだされることになりました。
「わたしの自己性ではなく、あなたの絶対的他性のうちにこそ、倫理的なものの根拠がある。」このイデーについては、まだ付け加えなければならないこともありそうですが、根本の図式を提示したということで、今回はこのあたりで一段落ということにしておくことにします。
今回の探求から結論として見えてくることが、一つあります。それは、「神は神であるかぎりにおいて、義なる神である」ということです。
「あなたは、他者に害を与えてはならない。」自己性という運命に取りつかれているわたしには、この法則を最後まで守りぬくことができません。
わたしは法則の普遍性を踏みにじり、他者の他性を食らいつくしてしまう。ただ、神であるあなたの絶対的他性だけが、わたしにこの法則を掟として与えることができる。
もちろん、この呼びかけを受け入れるかどうかは、あとはわたしの自発的な意志の問題です。その意味では、倫理を担うのはあくまでも人間であることは間違いありません。
けれども、わたしの意志の自律が、奥底のところではこの世を超えるあなたからの呼びかけへの応答だとするならば、倫理法則を守りぬくことは、もはや、わたしによる孤独な営みではなくなります。
義なる神を信じることは、人間の世界がただ人間だけのうちに閉じているのではないこと、私たちが傷つけあわずに生きてゆくように望んでいる誰かが存在すると信じることです。
たしかに、神の存在を信じていない人にとっては、倫理的なものの根源を神のうちに見いだすというのは、とても危ういことのように思われるかもしれません。
けれども、わたしが他者を傷つけるぎりぎりのところで次のように言ってくれるのは、ひょっとすると神しかいないのかもしれません。「あなたは、そんなことをしてはならない。このわたしがあなたに命じるのだ。あなたはその手を下ろしなさい。かれも、あなたと同じ人間ではないか。」