イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「常識的なるもの」の検討

 
 ところで、いま論じていることからは、哲学者が常識なるものに対して取るべき態度についても、学ぶところが少なくないように思われる。
 
 
 「……といいますと?」
 
 
 常識とは何だろうか。今ここであらためて意味を定義するとすれば、それは思うに、多くの人、すなわち「大多数の人々」によって共有されている知識や行動規範の体系といったものではないだろうか。
 
 
 「……まあ、そうも言えるかもしれませんね。」
 
 
 言うまでもなく、この常識なるものは、とても有用なものである。これに従って生きていればほとんど全てのことが丸くおさまるゆえ、これほど穏当なものもない。それだけでなく、「常識的なるもの」の中には極めて深い知恵が宿っていることも少なくないから、哲学者はいつでも常識を考察することから、極めて実り多い成果を期待することができるであろう。
 
 
 しかしである。常識とはあくまでも、「大多数の人々」によって共有されている知恵や知識のことである。そしてすでに確認した通り、「大多数の人々」の求めているものは真理そのものとは別のものであるがゆえに(前回の記事参照)、この常識なるものが有用かつ時に深遠なものであることは否定できないとはいえ、やはり哲学が求めている真理そのものとはあくまでも別のものということにならざるをえないのではなかろうか。まあ、当たり前といえばあまりにも当たり前のことなんだけれども。
 
 
 「……まあ、そりゃそうでしょうね。」
 
 
 
哲学者 常識 HENTAI 人間
 
 
 
 というわけで、今回の問答からは、次のような帰結が導かれるということになりそうである。
 
 
 問答からの帰結:
 「大多数の人々」によって共有されている常識なるものは、哲学が求めている真理の代わりにはならない。
 
 
 たぶん、実際に世の中で生きてゆく上では、哲学よりも常識に頼った方がいいという場面は、無限に存在する。
 
 
 そして、哲学を学んでいる人の中には、世間でいう「非常に残念な人々」が数多くいることもまた、遺憾ながら事実なのではないかと思われる。要するに、色々こじらせちゃってるわけである。そして、筆者もまたその「非常に残念な人々」の一員であることは、今さら否定しがたい事実である。
 
 
 人間には「大多数の人々」と「非常に残念な人々」の二種類しか存在しないとすればこれほど残念なこともないが、筆者の見るところ、この見方は残念なことに、それほど的外れなものではないのではないかと思われる(cf.余談ではあるが、この点に関して、さるアーティストは「全人口の80%がHENTAI」という至言を残している)。ともあれ、「常識と真理とは、そもそも異なるニーズに従って求められるものである」という点を改めて確認したということで、議論をさらに進めることとしたい。