イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

補論:「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」を拒んでしまった時には、何が起こるのか?

 
 最後に、後回しにし続けてきた論点を補足しておかなければならない。
 
 
 問い:
 懐疑するわたしが「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」という論理を受け入れない時には、何が起こるのか?
 
 
 私たちの省察においては、すべてを飲み込むような懐疑の自己破壊的な力が振るわれる中で、「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」という最後の一点だけが、他者の存在を疑うことのできないものとして信じることへと決断させたのだった。それでは、この一点すらをも疑う時には、一体何が起こるのだろうか。
 
 
 この点に関しては、筆者の答えは非常にシンプルなものである。
 
 
 答え:
 その場合には、わたしは思惟のうちで自死するほかないであろう。
 
 
 「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」という倫理的不可能性を飛び越してしまったら、その時にはもはや、懐疑するわたしのその懐疑を押しとどめるものは何もない。他者の存在を存在として受け止めることはできず、世界も、事物もすべてその確かさを失う。
 
 
 わたしは、「わたしは実存する一人の人間である」というあの根源的な事実すらをも見失い、思惟のうちで、いわば永遠にさまよい続けることになる。人を殺してはならないという一線の前で踏みとどまることのできなかった者は、自分自身が人間であるということの手触りすらをも失って、ほとんど自分で自分を縊り殺したような生を送ることを余儀なくされるのではないか。これが、これまで先送りにし続けてきた疑問を検討することから導かれてくる結論なのではないかと思われる。
 
 
 省察 懐疑 実存
 
  
 ここで結論だけを述べておくなら、そもそも、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、もしも人間が何も信じるものを持たないのであるならば、その絶対的な根拠を示されることがないままに、「あなたは殺してはならない」という掟の前で踏みとどまるほかないといった構造を持っているのではないかと思われる。
 
 
 「わたし自身の意識を超えたところに存在している他者は、わたしと同じように心を持っているはずである。その他者に害を与えること、ましてやその命を奪うことは、あってはならない。」現実においてこの論理に反するような出来事が無数に起こっていることは、この論理に対する反駁にはならない。この論理は、現実によっていくら裏切られるとしてもその妥当性を決して失うことがないような、人間存在を人間存在たらしめている根本的な掟であると言わざるをえないのである。
 
 
 従って、もしもこの掟をあえて否定しようとする人間がいるならば、私たち人間にできることは、彼あるいは彼女を相手にどこまでも粘り強く対話し続けることのみであろう。その対話によって、彼あるいは彼女がその掟の正しさを、信じることなしには決してその根拠を示されることのない正しさを受け入れることをせず、なおかつ、思惟においてのみならず、行為においても「あなたは殺してはならない」を前にして踏みとどまろうとしないとすれば、彼あるいは彼女は自らを、まさしく文字通りの「人類の敵」としての位置に追い込むことになってしまわざるをえないのではないか……。これらのことについてはまた場を改めて、より詳細に考えてみなければならない。今は、少なくとも今回の省察に関する限りでは論点を明確にしたということで、事足れりとすることとしたい。