イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

哲学か伝道か

 
 超サイヤ人哲学者3はともかくとして、前回の記事を書いたのちに、次のような疑問が浮かんできてしまいました。


 「筆者は哲学者として生きるだけではなく、伝道者として生きるべきではないのか。」


 正直に言って、今の筆者は、神の愛を伝えようと努力しつづける勇気を半分くらいくじかれてしまっています。もちろん、伝えたいことは伝えたいけれど、この課題はあまりにもハードルが高すぎる。


 しかし、哲学者を目指そうとすればするほど、「それだけでいいのか」という良心の呼び声がなぜか心の内に響いてきます。ハイデッガーが言うように、呼び声は私から、しかし私に降りかかってやって来るので、呼び声を聴く人間としては必然的に当惑せざるをえません。


 「キリストの十字架に示された神の愛を、命をかけて伝えるのだ……!」いや、もう少し待ってからでは、ダメなのでしょうか。


 21世紀の地球は宗教はめちゃくちゃハードルが高くなっていまして、いやもちろん僕自身としてはキリストを信じまくってはいるのですが、とりあえずは自分の中で揺るがない信仰を持つことが大事なのではないかと……。


 しかし、キリストははっきりと、「わたしのことを地の果てまで伝えなさい」と弟子たちに言っています。この点については、信仰者は言い逃れすることはできません。



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 これから期間無制限のアルバイト生活に入ってゆくので(MAXに鬱です)、せめて文章だけは何も考えずに明るく突きぬけるようなものを書きたいのですが、この件については何を言いたいのかもわからないまま、だらだらと書き流してしまい、申し訳ありません……。


 しかし、神が私たちのことを、自分自身が痛んでもかまわないほどに愛しているのだともし本当に信じているのなら、そのことを伝えようとする努力をせずにいてよいのだろうか。


 筆者はこの1年半(あるいは5年)のあいだ、もがき続けてきたけれど、神の愛なくしては、すでに十回以上は死んでいたであろう。そのことを考えると、キリストを伝えずして何が人生かという気もするが、しかし……。

 
 どう考えても自分からドツボにはまりこみに行っているような気もしますが、最近ではこれが自分の運命なのだとあきらめはじめました。自分でも自分で何がしたいのかわかりませんが、いずれにせよ、哲学者にしても伝道者にしても中途半端なのは確かです……!