イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

考えることとは、永遠に触れること

    ペリアゴーゲー、すなわち、魂の向け変えが起こるときには、人間は自分がよい方向に向かっているということを直接に知ることになる。議論を積み重ねることも必要なしに、ああ、そうだ、事情はよくわからないけれど、とにかく自分は善のほうに進んでいるのだと、とても深いところで感じられる安定した確信として理解される。そうなってくると、哲学と幸福とは、その根本からいって切りはなせないということにもなってきます。アリストテレスは、考えることは人間にとって最高の幸福をもたらしてくれるものだと言っています。よく、生きるうえでは考えないほうが幸福なのではないかと言われることがありますが、ギリシアの哲学者たちなら、「とんでもない、考えることをのぞいて人間の幸福があろうか」、と答えることでしょう。


  それにしても、考えるということはなぜこんなに楽しいのだろう。映画のことがとても好きな人は、同じような友人たちと映画の話をすることを、何よりも楽しむでしょう。しまいには、映画を見ること自体よりも、むしろ映画について語りあうことのほうを楽しむようになるかもしれません。僕は、生きることと哲学の関係についてもこれと同じことだと思う。生きることはとても喜ばしい。けれども、生きることについて語りあうことも、これ以上ないほどに喜ばしい。


  そして、生きることについて語ることは、人生の流れのうちに宿っているイデアを見てとることである。つまり、さまざまなものがやって来ては過ぎさってゆく日々のうちに、永遠なものの存在を感じとるということです。永遠というと、なんだかとても縁遠いもののようにも思われるけれども、じつはこの永遠こそが、当たり前の日常の流れをかたちづくっている。どんなにつまらないもののうちにもイデアが宿っているということは、生きることのよさを心の底から納得させてくれるものだと僕は思います。それにしても、幸福だけでなく、永遠まで与えられるとは!人間であるということはとてつもなく重い苦しみを背負うことでもあるけれども、そのことを知りぬきながらイデアのもたらす喜びについてひたすら語りつづけたプラトンのような人がいるということは、人類の全体にとっても誇りになることだと思う。


  今のこの時代は永遠について語ることがほとんどありませんが、程度の違いがあるとはいえ、いつの時代もきっと語られるのは力とかお金とか、そういったものだったのだと思います。しかし、たとえそうだとしても、イデアは少しも変わることなく今も人間の生活を形づくりつづけている。哲学者は芸術家や科学者たちとともに、人間の営みのうちで、この世には自分たち自身を超える永遠なものが存在しているのだということを静かに示しつづけてきました。僕も、なんらかの形でこの仕事に加わりたい。でも、それは人類のためとかではなくて、こんなに楽しいことをして生きることができたらなんて素晴らしいだろうと思うからです。厳しいことだとは思うけれども、本当に好きなことを仕事にしたい。もしできるならば、たくさん苦しんだうえで、それでもなんの曇りもなく幸せだと言えるように生きたい。まだ先のことは全然見えないけれども、残りの時間をかけて頑張ってみます。読んでくださった方にも、何かよいことがありますように。