イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ソフィストの誘惑

 
 論点:
 学びが成就するかどうかは、最終的には弟子の選択に委ねるほかない。
 
 
 師は弟子の実存のあらゆる要素を気づかうわけだが、師にできることにも限界はある。師は、その最後の局面においては、弟子の心に善なるものが宿っていることを信頼するほかないのである。
 
 
 弟子に課せられる、究極の問い:
「汝は真理を選び取るか、それとも……。」
 
 
 弟子も、あらゆる人間がそうであるように罪人の一人であるにすぎないことを考えると、この問いは非常にクリティカルなものであらざるをえないのである。これは、いわばダークサイド問題とでも呼びうる二者択一的状況なのであるが、哲学徒にとっても、この問いを回避することは不可能であると言わざるをえないのではあるまいか。
 
 
 たとえば、よく知られたかのソフィストの人たちなんかは、古代にも名を轟かしていた「セルアウト組」に属する人々であると言えるであろう。真理よりも名声を優先してしまった彼らは、その当然の哲学的帰結として、ラディカルな相対主義に陥らざるをえなかった(人間の世界は「知者である」よりも「知者に見える」に振り回されてしまう世界であるがゆえに、名声への執着と相対主義とはワンセットとならざるをえないのである)。
 
 
 「知っているように見える」の誘惑を退けて、困難で、ある意味では地味な「本当に知っている」を目指す世界のうちに、とどまり続けることができるか。弟子の心の中で起こるそのような葛藤を前にして、師は心中では絶えずはらはらしながらも、最終的には弟子自身が自らの運命に関して実存的選択を下すのを、待つほかはない……。
 
 
 
弟子 真理 ダークサイド ソフィスト セルアウト 相対主義 実存
 
 
 
 このブログの筆者の場合、名声を退ける高潔さを持っていたというよりも、自分には言論の世界でブイブイやってく器用さはないと特にこの5年間で嫌というほど思い知らされたので、良くも悪くも、純粋哲学の道をひた走るしかないのである。自分にはまともな将来なんて全くないんではないかと思うとガチで鬱に襲われそうになるが、ちくしょう、俺はこんなところでは終わらんぞ。地を這ってでも、死ぬまで哲学しつづけてやる……。
 
 
 本題に戻る。たとえば、名声ということに話を限ってみるとしても、哲学者からソフィストへの闇落ちという、ダークサイドへの誘惑は哲学徒の心を常に揺がしつづけるのである。たとえば、プラトン先生が体験したであろう誘惑と内的葛藤の激しさは、先生が生涯をかけてソフィストの実存をディスりつづけたという事実からしても、想像するにあまりあると言えるであろう。
 
 
 先生もきっと「一般受けなんてするわけないが、俺はイデア論の高みを目指し続けるしかないのだしくしく」と男泣きに泣きながら、いつかアテナイの哲学界でぶちかます「運命のその日」を夢見ていたに違いない(?)のである。筆者も、いずれ二十一世紀の哲学史という舞台の上で特大の一発をぶちかます日のヴィジョンを胸に抱きつつ、とりあえずは今日も地味にドゥンス・スコトゥスの勉強に取りかかるとするか。ぶつぶつ……。