イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

神の問題へ

 
その子二十   櫛にながるる黒髪の  おごりの春の  うつくしきかな
 
  欲望されることを欲望する。とくに、性的な意味をおびた身体を他者から求められることを欲望する。こういう欲望に取り憑かれてしまった人は、まわりの人びとを惹きつけずにはいない見せかけの奥で、実存を揺るがすような不安のうちにつねに置かれることにもなります。この点について、フランスの精神分析家であるジャック・ラカンは、「ほんものの女性は、自分自身が女性であるということにたいしていつも戸惑っているのだ」という意味のことを述べています。必ずしも女性に話を限定する必要はないのではないかとは思いますが、その一方で、この言葉がもっている含蓄はとても深いといえるのではないでしょうか。
 
 
  「細きわがうなじにあまる  御手のべて  ささへたまへな  帰る夜の神」。与謝野晶子のこの歌は、こうした欲望がはらんでいる問題系が、じつは神学の領域にさえも及んでゆくものであるということを示しています。晶子はここで、わたしの恋人は神であると言っています。このような言葉を、青春期にはよく見られる大げさな物言いとして真面目に受けとるのを拒否することは、確かに可能です。けれども、そういって事をすましてしまうだけでは、あまりにももったいない。トランス状態のうちにある人にたいしては真面目に耳を傾けなければならないとは、人類の知恵があまねく教えているところですが、和歌の場合にも、このことは当てはまるように思います。なにしろ、折口信夫という国学者の研究によるならば、和歌という芸術の発生してきた歴史上のプロセスをたどってゆくと、最後のところでは、憑依状態のうちで神の言葉を語るという営みにまで行きつくそうですから。モダンを迎えた明治社会に下された巫女の神託としては、『みだれ髪』に次ぐものはそうそう見つからないはずです。
 
 
神について
 
 
  「夜の神」について考えを進めてみるためには、もう少し折口信夫の研究を参照してみる必要があります。折口は、はるかな時を超えて古代にまで時代をさかのぼってゆくと、現代を生きている私たちからは想像もつかないような神の姿が見えてくるようになるのだと言っています。神は、空のうえにいる抽象的な存在であるというだけではない。神はまた、じっさいに人間のような形をとって、向こうから私たちのもとを訪れもする。東北地方には、年のはじめに村落を訪れる鬼の伝統が、今でもまだ残っています。折口は、神とも鬼ともつかないこの存在こそが、神なるものの原初のかたちだったのではないかと考えました。
 
 
  折口は、「訪れる」という言葉の起源はどうも、やってくる神が私たちの家の戸を叩くさいの音にあるようだと言っています。「オトズレル」という語のうちにある「オト」をこのように解釈するというのは、とても示唆するところの豊かな考えであるように思います。この言葉のうちには、超越の次元を前にした人間の、憧れと恐れが同時に刻みこまれているというわけです。古代に編まれた『万葉集』の東歌というジャンルのうちに、自分のもとを訪れる男を戸の外に引きとめておくという歌があります。戸を叩いてわたしのところに入ってこようとしているあの男は、神である。この歌は、男女のやり取りと、もういくぶんか薄れつつあるかつての来訪神の記憶とが、かすかなしかたで重ね合わされている例だということができるでしょう。
 
 
(つづく)