「わたしが死から救われるかどうかは、神がわたしを愛しているかどうかにかかっている。」ここにいたって、救いの道について哲学の側から語れることは、その終着点にたどりついたことになります。
あとは、神が存在するかどうか、そして、その神がわたしを愛しているかどうかです。哲学にできるのは、この地点に立つまでわたしを導いてゆくということに尽きます。
神の愛を信じるということについて、もう一点だけ指摘しておくことにしたいと思います。
神がわたしを愛していることに、気づくということ。このことは、風がわたしのもとを吹きぬけてゆくようにして起こる、ひとつの出来事です。そして、この出来事にめぐりあうということが、そのままわたしが救われることであるといえる。
信じるということは、このように救われたことのしるしとして、わたしの心のうちに芽生えるのではないか。救いの出来事は、わたしを超えるところからやってきて、わたしのもとを吹きぬけてゆきます。その出来事を受けいれることが、そのまま神の愛を信じることであるといえるのではないか。
「救いの出来事を受けいれること。」僕はこのごろ、自分の哲学は、すべてこの信じるというモメントのまわりをめぐっているのではないかと日々感じさせられています。今回は、この地点に立つことを、死にたいする自分なりの答えということにさせてください。
最後に、死については、どうしても次の点を付け加えずにはいられません。
死ぬことを超えて、とどまりつづける命が存在しているということ。このことを心の底から僕に納得させてくれた人は、この世には一人しかいませんでした。
その人は私たちに、こう言っています。あなたたちは永遠の命を探しもとめて、聖書という本を読みふけっている。しかし、聖書の言葉はすべて、わたしについて書いてあるのだ。
永遠の命とは、この世を生きている私たちには耳慣れない言葉です。「そんなものが、本当にありうるのだろうか。」もしこの命について知りたいと思ったら、ぜひ聖書のページをめくってみてください。この本の読者は、この命を与えることを私たちに約束している、ひとりの人に出会うことになるでしょう。