イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

「私たち」という言葉を取りもどすために   ー未来の共生にむけて

 今日は、パブリックな言論をめぐる現在の状況を確認したうえで、この国の未来について考えてみることにしたいと思います。私たちは前回、これまでの憲法学におけるスタンダードであったマグナ・カルタ憲法観にたいして、ヘーゲル憲法観というパースペクティヴを提示してみました。
 
 
 ここで、この二つの考え方のちがいを一言でいうとするなら、次のようになるでしょう。すなわち、「対立から共生へ」というのがそれです。僕は、このフレーズこそが、これから先のこの国で実効力をもちうるパブリックな行動や言葉をしるしづける特徴になるだろうと考えています。
 
 
 いまの私たちの国の状況では、激しい対立を引きおこすような言論がマジョリティーを握るということは、ほとんどありません。たとえば、この憲法の問題にしてみても、いたずらに体制側を攻撃するようなタイプの言葉は、大多数の人の耳には届いていないように思います。あくまでも、理性にもとづいて状況を把握し、冷静に語っている言葉だけが、かろうじてまだ聞かれているといえるのではないでしょうか。求められているのは、これから先もこの社会のなかで共に生きてゆくということを前提にした、建設的でありながら共感にあふれてもいる言葉なのだともいえるかもしれません。共生というタームはまだそれほど一般には浸透していませんが、これから先のこの国においては、ますます重要なものになってくるように思われます。
 
 
 しかし、ここに大きな問題があります。私たちの国は、ここ数十年のあいだに、公の問題についてきちんと考えてゆくための土台を少なからず弱体化させてしまいました。そのことの理由としては、近年になるまでは大多数の人がとくに目だった不自由もなく、多かれ少なかれ豊かな生活を送ることができていたことで、プライベートな領域を超えて、パブリックなところへと想像力を伸ばしてゆく必要がそれほどなかったということがやはり大きいと思います。その結果、自分とそのまわりの人びとの範囲をこえて生きることのよさを考えることが、以前よりもずっと難しいものになってしまいました。
 
 
共生
 
 
 けれども、それだけではなく、このことのうちには、おそらくもっと深い理由もあるように思われます。私たちの時代においては、経済的なものの力がこれまでの歴史上から見てもかつてないほどに強まっている結果、マーケットとエンターテインメントの世界の外側を想像することが、ますます難しくなってきています。ハンナ・アーレントという、前世紀のアメリカで活躍した哲学者は、現代という時代には経済的なものの領域が拡大してゆくことによって、政治への関心が失われてゆくことは避けられないと考えました。僕も、この考えには同意するところが少なくありません。少なくとも、パブリックな領域についてみなで考えるということは、今の時点ではかぎりなく難しい。メディアでは、一分たりとも休むひまなしに、さまざまな立場からさまざまなことが語られてはいるけれども、「私たち」という言葉を共感をもって用いることがこれほどまでに困難な時代はなかったと思います。
 
 
 けれども、これからもずっとそうであるとは限らないのではないか。僕は、共生という考え方がこれから社会のうちに浸透してゆくことによって、少なくともある部分においては「私たち」という言葉の実感を取りもどすことができるのではないかと考えています。そして、憲法の問題は、そのことを最もよく示してくれるケースだといえるのではないでしょうか。ここでは、この路線にしたがって考えてみることにしましょう。
 
 
共生
 
 
 ヘーゲル憲法観は、共生という考え方によって支えられています。私たちは、それぞれ職場もちがえば、関心もちがう。趣味もちがうし、ライフスタイルも異なっている。これほどまでに異なっている私たちを結びつけることは、ほとんど不可能であるようにもみえます。
 
 
 ただし、ここに一つだけ、私たちにとって救いとなりうる事情があります。それは、私たちがこの国のなかで、時代と場所を同じくして共に生きているということ。そして、もちろん人によって事情はさまざまではあるけれども、この国のなかで日常を送ってゆくことを愛している人の数はとても多いということです。
 
 
 たとえば、今の若い人たちのあいだで人気のある漫画である『よつばと!』をはじめとして、「日常系」と呼ばれるマンガやアニメがこれほどまでに人気を博している国は、なかなか他に例をみないのではないでしょうか。街で見つけたちょっとした商品や、友だちや家族と一緒に、あるいは一人で食べる、毎日のご飯。訪れたテーマパークで写真をとったり、家のなかで本やDVD、音楽に触れたりすること。YouTubeでみる、かわいらしい犬や猫の動画や、ツイッターの上で毎晩繰り広げられる、身もふたもないけれども底抜けに明るいお祭り騒ぎ。こうした小さなものごとを愛するということにかけては、この国に生きている私たちは、とても豊かな知恵を身につけています。
 
 
 仕事を辛く感じたり、将来のことを考えると不安になったりすることもあるけれども、もしできるなら、他の誰をも傷つけずに、まわりの人たちとできるだけ仲良くしながら、毎日を少しでも幸せに生きてゆきたい。もちろん、そんな風には思えないというくらいに悩み苦しんでいる人も数多くいることとは思いますが、街の中を歩いたり、電車に乗ったりしている時の印象や、さまざまな人と話し合ったりした体験の結果として、この国のなかでそのように考えている人の数は多いのではないかと僕は考えています。こうした人たちを、ここでは「日常を愛する人たち」と呼ぶことにしましょう。この言葉を用いるのは、何よりもまず、自分自身がそういう人間の一人だからというのもありますが、今のこの国の人びとを形容する言葉としても、それほど的外れなものではないのではないかと思うからです。
 
 
 僕は、こうした「日常を愛する人たち」が、これから先にパブリックな問題を考えることができるようになるかどうかが、これからのこの国の将来を決める大きな焦点のひとつになるだろうと考えています。先月のこのブログでは、大学で人文知の肩身がますます狭くなりつつあるという問題を取り扱いましたが、これから先のこの国には、この問題だけにとどまらず、個人だけでは解決のつかない問題がこれからもっと数おおく現れてくることでしょう。良かれ悪しかれ、私たちはこれからますます、プライベートな領域にとどまって生きてゆくことの限界を思い知らされることになる。日常を愛する人たちは、このままではこれまで愛してきた生活を送ることができない状況に置かれてしまうかもしれないということに、いま次第に気づきはじめています。
 
 
 今回の憲法の問題は、こうしたことがはらんでいる危機が、最も先鋭なかたちをとって現れている例だということができないでしょうか。けれども、この地点まできて私たちは、他でもない日本国憲法そのものが、私たちの助けになってくれるということに気づくことになります。ヘーゲル憲法観について考えるしめくくりとして、日本国憲法の前文にもう一度立ちもどってみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
[今回と次回の記事については自分の印象から出発して語ることがすこし多くなってしまうため、ひょっとすると、読んだ方のなかには「自分の実感とは違う」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。憲法の問題については、身近な生活の実感をともなって語ることも必要なのではないかと思い、このようなスタイルで書くことにしましたが、ひとつの意見としてご参照いただければ幸いです。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)