イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

絶対悪の問題

 
 善なるものそのものへの憎しみは、一般に、ふだん表面にあらわれてくることはありませんが、ふとした時に、あるいは、時代が悪いものになってきたときに浮かびあがってきて、人間を引きさらってゆくことがあります。
 
 
 倫理法則を破るという場合には、少なくとも次の二つのケースを区別できるように思います。
 
 
 まずは、自分の利益を追いもとめてゆくなかで、結果的に法則に違反するというケース。このケースにおいては、ひとが他人を傷つけるのは過失による場合もありますし、他人を傷つけてしまっていたことに気づいた時には、すぐにその行為をやめたり悔いたりすることも期待できます。
 
 
 ただし、自分の行為が悪である、すなわち他人を傷つけていることに気づいた後に、その人が頑なになる可能性はあります。「それくらい、いいではないか。」「他の人だって、やっているではないか。」
 
 
 こうした言葉はもちろん、この世に生きる誰もが発しうるものです。善なるものへの憎しみは、すべての人の心のうちに潜在しているということなのでしょう。
 
 
 しかし、最初から法則を破ることがわかっていてそれに違反するというケースは、それよりもはるかに深刻です。「他人を傷つけようとなんだろうと、わたしは自分のやりたいことをやる。」倫理に反してでもエゴイズムを追求するという選択にたいしては、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。
 
 
 
 倫理法則 エゴイズム 絶対悪
 
 
 
 正直に言って、あまり気は進みませんが、第三のケースについても考えておかなくてはなりません。それは、もはや利益のために他人を傷つけるのではなく、他人を傷つけることそのもののうちに目的があるという場合です。
 
 
 まず最初に確認しておきたいのは、このような望みを持つということは、原理的には誰にでも起こりうるということです。誰かを傷つけたいと強く思ってしまったからといって、その人をただやみくもに非難するべきでないことは言うまでもありません。
 
 
 けれども、その人が実際に他人を傷つけるとすれば、これはもう別の問題です。そして、このことが個人の規模にとどまらず、集団や国家のスケールで行われるとしたら。他者を傷つけること、他者をはずかしめることそのものを許容したり、さらには、そのこと自体を目的とするシステムが、この地上に現れてしまうとしたら……。
 
 
 私たちはここで、絶対悪という問題に触れはじめています。すでにいくぶんかは深淵に足を踏み入れてしまっているような気分ですが、このままもう少し考えてみることにします。