イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

片隅で考える

 
 しかし、先人たちから学んだり感動を受け取ったりしたものとして、何か伝えたいことが自分にもあるだろうか。いろいろ思い巡らしてみるけど、とりあえず、次のことがまず思い浮かんだ。
 

 「考え続けることは、生きることのうちで本当に大切なことである。」
 

 フツーである。こんなこと、わざわざ伝える必要があるのかという気もするが、しかしである。
 

 生きてゆけばゆくほど、人間ってたぶん、考えることの無力さを思い知らされる。ていうか、世の中って考えないほうがラクって場合がめちゃくちゃ多い。考えれば考えるほど世の片隅にしか居場所がなくなってくというのは、抗いがたいこの世の法則なのではなかろうか。
 

 「考える人のほうが、ビジネスでうまくゆく」というのは、一面では正しいのではあろう。だけど、ホントにいろいろ考えちゃう人って、たぶんもっとウラぶれてる。もちろん、考えてるから無条件にエラいってわけではなく、人の役に立つって、たぶん考えることと同じくらい(場合によってはそれ以上に)重要だとは思うのだが……。
 

 しかし、その問題はとりあえず置いておく(テオーリアとプラクシスの関係は、哲学的探求の永遠の主題である)として、本題に戻るとである、考えることって、人生の中でも一番大切なことだと、少なくともその中の一つではないかと思うのだ。
 
 
 
 テオーリア プラクシス 哲学 正社員 片隅 考える
 
 

 何にもならなくても、なんで生きてるんだろうとか、何のためにこの世に生まれてきたんだろうとか考えたいのである。
 

 正社員になるとか、お金をたくさん稼ぐとかは、僕自身はそういう方向に進みたくないのである。ていうか、仮に進みたくても僕には進めないのである。
 

 僕はたぶん、ダメな方の人間なんだろう。でも、世の片隅でこっそりつぶやいてるだけだから、どうか多めに見てもらえまいか。世の中のスピードって速すぎるし、生活してゆくことは大切だと思うけど、経済とか仕事とか、色々きつすぎるのである。ゆっくり考えて生きたいんだ。そして、そういう思想を持つって、やっぱダメなの……?
 

 ものすんごい勢いでダメって言われる気がするから、黙ってた方がいいのかもしれない。哲学って、特に今の時代にはめちゃくちゃ無力である。くり返しにはなるけど、こっそりつぶやいてるだけだから、どうかいろいろ大目に見てもらえないものであろうか……。