イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

無限に小さな赤ちゃん

  とても残念なことですが、哲学について書くということには、やたらと重苦しかったり、なにか高尚で縁とおいものになってしまう傾向があるということは確かです。哲学にとって、「暗い」「つまらない」「難しい」といったような批難をかわすのはとても難しい。たまには、何も考えずに気分がウキウキしてくるようなことを書いてみたいものです。
 
 
  そこで今日は、ゴッドフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツという17〜18世紀の哲学者の、死についての考えかたを見てみたいと思います。この人は、歴史のなかでも稀にみる天才でした。数学において微積分を発見したことは、あまりにも有名です。さて、ライプニッツは死ぬことについて、いったいどのように考えたのでしょうか。「いきなり死ぬだなんて、めちゃくちゃに暗いじゃないですか。」たしかに。しかしながら、最後のところにまでたどりつけばこれほど明るい話はないということをきっと納得していただけるはずですので、どうかご辛抱ください。
 
 
  本題に入ります。ライプニッツは、私たち人間はみな赤ちゃんとして生まれる前から、精子のなかに小さくなってくるまっていると考えました。私たちは、お父さんの精子のなかにすでに存在していた。これはいうまでもなく、現代の生物学とも共通する見解ですが、ライプニッツはそれよりもはるか先へと進んでゆきます。ライプニッツはなんと、私たちはみな、最初の人間であるアダムの中にすでに存在していたのだとまで考えました。
 
 
  人類のはじめにまで遡ってみます。アダムの睾丸のなかにある精子の中には、その子供であるイサクがいました。前成説という学説を支持するライプニッツによれば、精子のなかにいる小さな人間は、最初からすべての器官を揃えもっています。つまり、アダムの精子のなかに眠っている小さなイサクもまた、睾丸をもっているわけです。その睾丸の中には、何が存在しているのでしょうか?そうです、イサクの息子である、ヤコブやエサウをくるみこんでいる精子があります。
 
 
  つまるところ、アダムの睾丸のなかには、アダムの孫たちもいるということになります。そうなると、当然そこには、ひ孫も、その子孫たちもいるのだということになってくる。そして、この連鎖はどこまでも進んでいって止まりません。小さな人間のなかに精子が、その精子のなかにまた小さな人間が…というわけです。イメージとしては、人形のなかにまた小さな人形がつまっている、ロシアのマトリョーシカという人形を思い出していただくとわかりやすいかもしれません。
 
 
  アダムの中にイサクがいて、イサクの中にヤコブが、ヤコブの中にヨセフが…という連鎖をずっとたどってゆくと、私たち一人一人のところにまでゆきつきます。アダムの睾丸のなかには、あらゆる時代のすべての人類が、小さな赤ちゃんとして眠っていた。ライプニッツも、この記事を書いている僕も、それから、今のこの時代になってもまだ生まれてきていない、未来の人間たちも。とても壮大なスケールの話です。お釈迦さまではないですが、瞑想的な気分にいざなわれます。
 
 
  なるほど、話はわかった。けれども、今の話と死ぬこととのあいだに、いったいどのような関係があるというのでしょうか?字数が尽きてしまったので、この問いの解決は次の記事に持ちこさせていただきたいと思います。ライプニッツの怪物的な知性は、この人類すべてが抱える大問題にたいして、はたしてどのように答えるのか。死ぬことなんて吹きとばせ!明日は、近世が生みだした大天才の頭脳がたけり狂います!