イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

発散する真理ふたたび

 
 わたしの誕生に関する、様相の不可知テーゼ:
 わたしの誕生という出来事に関しては、必然性言明(A)も偶然性言明(B)も、絶対的に正しいものとして、その妥当性を証明することは不可能である。
 

 上の不可知テーゼについてさらに指摘しておきたいのは、たとえAやBの妥当性を証明することができないとしても、それにも関わらず、私たちはAやBを信じたり、それらについて考え続けたりせずにはいられないであろう、ということです。
 

 たとえば、すでに見たライプニッツの充足理由律や、九鬼周造の「原始偶然」のような概念は、必然性や偶然性の観点から哲学的に考え続けるということがなければ、生まれてくることもなかったでしょう。このように、哲学には「それが正しいかどうかはわからないけれども、その線に沿って限界まで考え続けてみなければわからない」としか言えないような対象の領域があり、様相の問題については、そのことが典型的に当てはまると言えるのではないだろうか。
 

 このように考えてみると、筆者には、およそ哲学の議論には次の二つのものが存在するように思われます。
 

 ⑴ 無前提的議論(懐疑的思考のフェーズ)。たとえば、上記の不可知テーゼはこちらの側に属します。このタイプの議論においては、特定の信は必要とされません。哲学者であれば、あるいは、問題に関心のある人であれば誰でもこの議論にコミットできるし、また、哲学者であればある程度までコミットすることは義務であるとさえ言えるかもしれません。
 

 ⑵ 仮説的議論(信仰的思考のフェーズ)。その一方で、ある一定の立場への信に基づかなければ意味を持たないような議論もあります。上に挙げた、ライプニッツの充足理由律や九鬼周造の原始偶然はこちらの側に属する面が強く、出来事の必然性、あるいは偶然性を信じる人間でなければ、そうした議論を展開する必要を感じることもないかもしれません。すでに述べたように、こちらの議論においては「真理かどうかはわからないけれども、とりあえず従ってみる」という仕方で考えることが求められます。
 
 
 
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 ⑵の領域ができるだけ狭められ、理想的にはすべての議論が⑴の領域に還元されるならばこんなに平和かつ建設的なことはなさそうですが、おそらくは事柄の本質からいってそうは行かないであろうというのが筆者の見立てです。というよりも、⑴の領域において達成しうることは極めて小さなものであるに過ぎず、哲学の営みの大半は⑵に属さざるをえないというのが、偽らざる実情なのではないだろうか。
 

 カントは、⑴と⑵の作業がひとつの正しい方向へと自然に収束してゆくと考えていたように思われますが(理性の批判は、諸理念の理論的妥当性を証明はしないものの、唯一不変の諸理念の実践的妥当性を否定するものではなく、かえってそれを肯定する)、おそらくは、⑵の探求は少なくとも反駁不可能な仕方では一つの方向に収束することはなく、むしろ複数の方向に発散してゆくことになります。このあたりの事情については、すでに以前の『不確定性の形而上学』において一度考えてみたことがありますが、真理が、私たち人間の目から見ると発散してゆくように見えるという事情は、どうにも止めようがなさそうです。
 

 ここには信仰の、あるいは狂信の深淵が存在していることは間違いなさそうですが、混乱とコミュニケーションの不可能性を恐れるあまりにこの深淵への通路を塞ぐことは、おそらくは哲学の営みそのものの生命を絶つことにつながるのではないか、議論が少し(かなり?)煩雑なものになってしまいましたが、最後にもう一度わたしの誕生というテーマに立ち戻りつつ、今回の探求にひと区切りをつけることにします。