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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

憲法第9条へのイントロダクション

 
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 
  上の条文はこれまで、憲法というだけでこの第9条のことを指すことまであるというくらいに、私たちの議論の主題となりつづけてきました。もちろん、集団的自衛権にかんする今回の問題も、この条文にかかわっています。私たちの国のなかで、世論を二分してしまうほどにデリケートな主題はそれほど多くありませんが、9条の場合には、まさにこのことが当てはまります。皮肉なことではありますが、この条文は私たちに、「平和ではなく剣をもたらしてきた」とさえ言えるかもしれません。
 
 
  けれども、このシリーズでは、何らかの立場を擁護したり、別の立場を批判したりすることではなくて、まずもって、この9条を理解することを目指してみたいと考えています。集団的自衛権についての目下の問題はとても大事なものではありますが、直接にその問題に触れるのではなくて、9条について原理的なところから考えてみたい。このことは、現在のような状況においては特に必要とされているように思います。
 
 
  9条の問題については、ここ数年、あるいは数十年の流れだけではなく、スケールをもっと大きくとって、戦後70年の歴史の流れのなかで見てゆく必要があるように思います。日本国憲法第9条は、どのような国づくりに向かおうとする条文なのだろう。そこで言われていることに、現実性はあるのだろうか。私たちは9条にたいして、今までどのように向きあってきたのか。国の未来のことを考えたとき、私たちにはこの条文にたいして、どういう選択肢を持っているのだろうか。将来について何らかの見通しが持てることを願いつつ、そういったことを問いかけてみたいと思っています。
 
 
  けれども、ひょっとすると70年どころでは済まないかもしれません。世界史を眺めわたしてみても、この9条はほとんど全くほかに前例のないものであると、憲法学者たちも口をそろえて言っています。この法制史上のアノマリーをどのように理解すればよいのか、学者の方たちのあいだでもまだ、きちんとしたコンセンサスができあがっているわけではないようです。この条文にきちんと向きあうためには、法学だけではなく、哲学の知や、歴史や芸術についての人文知をも総動しなければならないだろうと予感されます。もちろん、ここでは全てのことについて論じることはとうてい不可能ですが、のちに考えてゆくための手がかりにでもなればということで、考察を始めてみることにします。
 
 
 9条
 
 
  「私たちの国の憲法硬性憲法である」とはよく言われることですが、憲法が持っているこの性質によって、問題がさらに複雑なものになっています。これ以上ないほどに変わったものであるのに、この条文を変えることは今のところ、ほとんど考えられないくらいに難しい。けれども、日本国憲法がもし硬性憲法でなかったとしたら、9条はまず間違いなく、ずっと昔に改正されていたことでしょう。良かれ悪しかれ、私たちは、この条文とはまだ当分のあいだ付き合ってゆくことになるに違いありません。だからこそ、9条のなかにはらまれているイデーに、これから真剣に向きあってみることにしたいと思います。いま、国を二分している事態を根本のところで動かしているのは実はこのイデーに他なりませんが、不思議なことに、イデーそれ自体は私たちの目から、少なくとも部分的には隠されています。9条を覆っている目に見えないヴェールを外したとき、いったい私たちに何が見えてくるのでしょうか。これから探ってみることにしましょう。
 
 
  前置きが長くなりましたが、そろそろ出発です!まずは、簡潔にではありますが、戦後の流れのなかでこの条文がどのような運命をこうむってきたのかという点について、歴史を眺めながら考えてみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)