イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ムスカではなくナウシカに   ー9条が私たちに求めていること

 
 気がつくと、9条について論じはじめてから、もう三週間以上もたってしまいました。最初から読んでくださっている方にはとても大きな負担をおかけすることになってしまい、申し訳ありません。終戦の日までには完結しますので、もしよろしければ、あともう少しだけお付き合いください。
 
 
 すでにこれまでの記事で、Bグループの人たち、すなわち、「平和を愛していて理性を優先する人たち」にたいする、リアリスティックな観点からみた9条の弁護をいちおう終えました。「9条を守ることは、私たちの目の前の現実からしてもよい選択肢である。」もちろん、議論の余地はまだたくさんありますが、かりにこの弁護がうまくいったとすると、この現実の世界に配慮する必要はもはやないということになります。
 
 
 前回までの数回では、9条をめぐるこの国の実情に触れざるをえませんでした。それは、この条文を弁護する場合、その領域に触れずにすますことは誠実ではなくなってしまうからです。けれども、日本国憲法第9条にはそれでも守るべきものがあるはずだという思いを抱いている人は、少なくありません。それはこの条文が、戦争のない世界にむけて作られているからです。僕は、この条文を守ってゆくことは、この国だけではなく人類の全体にとっても価値をもつことだと考えています。
 
 
 おそらく、9条の条文は人類の歴史の流れからみるならば、とてつもなく大きな意義をもっているといえます。もしもこの条文がなくなるようなことがあったとしても、注意ぶかい未来の哲学者たちは、このような条文がかつて私たちの国の憲法のなかに存在していたことを、けっして見逃しはしないでしょう。彼らはおそらく私たちの国について、「実情はどうだったにせよ、この条文を持ちつづけたことは偉大なことだった」と判断をくだすはずです。もちろん、そのさいには、この国がたどるじっさいの道のりが、あまりこの条文の内容から離れすぎないことも重要ですが……。
 
 
 ここからは、視点を大きく変えてみることにしたいと思います。これまでは、数十年くらいのスパンで未来のことを考えてきましたが、もっとはるか遠くの未来を見すえつつ、戦争と平和について、この条文をとおして考えてみることにしましょう。
 
 
9条
 
 
 日本国憲法第9条の条文は、理念のうえからみれば比類のない正しさをもっています。武力によって秩序を作るという考え方は、たとえ現実がどうであるにしても、理想の世界のあり方からは大きく外れています。少なくとも、それぞれの国が互いのことを一瞬で滅ぼし尽くせるだけの爆弾を持ちあうことによって均衡を作っているというのは、よく考えてみると、きわめてグロテスクな光景ではないでしょうか。
 
 
 9条は、この情況から逃れるための唯一の手段をうたいあげます。「それは、それぞれの国が、みずからの武力を放棄することだ。」論理的な観点からいえば、どうやらこれ以外の手段はなさそうです。けれども、このことを実現するためには、想像することもできないほどに大きな決意を必要とします。
 
 
 いったい、どちらのほうが多くの勇気を必要とすることでしょうか。ほかの国のことを信頼して、自分の国の武力を完全に放棄することでしょうか。それとも、ほかの国を信頼せずに、地球上から人類の全体を何回でも絶滅させることができるほどの爆弾で武装することでしょうか。
 
 
 いそいで付けくわえておくと、正直にいって僕自身にはとても、最初のほうの姿勢をラディカルに貫きとおす勇気はありません。それはもちろん、他国から攻撃されるのが恐いからです。その場合には、ひょっとすると死ぬかもしれないわけですし……。
 
 
 けれども、私たちは、どれだけそのことが難しいとしても、9条がさし示す道を選ぶことが本当はおそらく正しいのだということについては、よく知っています。それは一つには、物語や映画のなかで、毎日のようにそのことを確認しつづけているからです。
 
 
9条
 
 
 たとえば、『スター・ウォーズ』シリーズのルーク・スカイウォーカーは、最後の時点で、どのようにして悪の力に打ち勝ったのでしょうか。それは、ライトセーバーという武器を用いて、相手を斬り殺すことによってではありませんでした。彼は、はるか昔に悪の道に堕ちた父親のダース・ヴェイダーの心を信頼して、ライトセーバーを捨てました。「すべての人の心のなかに平安が訪れたときにはじめて、戦争はなくなる。」残念ながら、現実の世界でそうしたメッセージが受け入れられることはそれほど多くありませんが、『スター・ウォーズ』シリーズには、世界中の数えきれないほどの人が熱中しています。そこでは、あのルーク・スカイウォーカーのことを偽善者だと非難する人は、ほとんどいません。むしろ、次のように感じています。「彼こそがジェダイ、正義の騎士だ。物語の終わりは、こうでなくてはならない。」
 
 
 また、スタジオジブリの作品には、この国の人たちはみな、とてもよく親しんでいます。この人たちがどのくらいジブリの作品を好きかといえば、テレビ番組の再放送があるときには、あれほどくり返し見たというのに、ついまた見なおしてしまうというほどです。再放送の日には、電車のなかで若い子たちが次のように言っているのがよく聞こえてきます。「今日、またラピュタやるんでしょ。しょうがない、また見るしかないよ。」
 
 
 スタジオジブリの作品を見るとき、私たちは、人間にとって本当に必要なことを直観で感じとっています。世界がどれだけ悲惨で救いようのないものに見えるとしても、最後まで、ナウシカのような優しさをもちつづけること。調停することが不可能にさえみえるような戦いが目の前で行われているとしても、あのアシタカのように、厳しい現実を前にしてじっくりと考えつづけること。主人公たちはみな、他人を傷つける力以外のものによって、世界に平和をもたらします。けれども、ひとたび再放送の時間が終わり、テレビを消して現実の世界に戻ると、そのとたんに私たちは「平和のためには武力が必要だ」というロジックのもとに舞い戻ります。武器が必要だ。軍隊が必要だ。いや、平和のためには、何よりも核兵器が……。そのとき、私たち自身の姿は、あのムスカ将軍のイメージに、知らず知らずのうちに似てきます。
 
 
 けれども、そうなってしまうことは、ある部分では仕方のないことであるともいえます。それはたぶん、私たちのまわりには、自分たち自身の考えも含めて、ムスカ将軍のような思考がそこら中に蔓延しているからです。
 
 
 これを認めるのは辛いことですが、私たちの世界は、根底的なところで病んでいます。それは誰か特定の人や集団のせいというわけではなく、もっとずっと根の深いところに原因をもつことなのでしょう。けれども、そうであるからといって、私たちの心そのものまで狂わせてしまう必要はないと思います。日本国憲法第9条は、今の世界の原理からみれば、とても無力で、大きく間違っているもののようにみえるとしても、おそらくそれは見せかけにすぎません。本当はむしろ、その逆です。「この国は戦争をするための武力をもつ」などといったことが書いてあるふつうの条文のほうが間違っているのであって、世界のなかでただ一つ、この9条だけが正しいのだと主張することもできるのではないでしょうか。現状からしても、「この条文だけが正しい」のであって、「この国だけが正しい」とは、間違っても言えませんが……。
 
 
 すべてを守ることができないとしても、何とかその理想に少しでも近づこうとして、この条文をおそるおそる守りつづけてゆくことはできるのではないか。それにしても、この理想から開かれてくる未来は、どのようなものなのだろう。これから、この条文がさし示す未来について、もう少し探ってみることにしたいと思います。
 
 
 
 
 
[ここから先の数回の記事では、現在の地球の状況にはとらわれずに、はるか先の未来にむかって思考を向けてみることになると思います。「それでは、いま9条を守るということの意味がなくなってしまうのではないか。」この点については、もしよろしければ「9条のディープ・フェーズ」というシリーズをご覧ください。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)