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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

避けるべき未来について   ー9条を弁護する

 
 9条の弁護は、Bグループの人たち、すなわち、「平和を愛していて理性を優先する人たち」に対して行われるというのが、前回の記事でたどりついた地点でした。今回の記事では、さらにこの弁護をつづけてみたいと思います。これまでに書いてきたこととも少し重なりますが、大まかにいって、この弁護は2タイプに分かれるといえるでしょう。
 
 
 
① 平和の素晴らしさと9条の理念を訴える
 
 実は、このシリーズの中で最も力づよく書くべきなのは、この①なのかもしれません。けれども、平和の素晴らしさと9条の理念について訴える、このタイプの言葉は、Bグループの人からはきわめて無責任なものに見えてしまいます。それは、すでに何度も見てきましたが、「攻められたらどうするんだ」という反論がただちに成り立ちうるからでした。
 
 
 実は、無責任にはならない道が一つだけあります。それは、9条の理念を、その結果とともに最後まで貫きとおすことです。人類の真の平和は、武力を完全に放棄することのうちにしかない。それならば、私たちの国がまず一番に捨てよう。ひょっとしたら、私たちは死ぬかもしれない。だが、それでもいいじゃないか。私たちは正しいことをするのだ。正しいことをして死ぬとして、何が問題なのだ。私たちが恐れなければならないのは死ではなく、不正だ。日本は率先して、世界のモラル・リーダーになるのだ。
 
 
 これこそが、責任ある9条スピリットというものかもしれません。日本国民の大半がイエス・キリストマハトマ・ガンジー級の聖人であれば、このロジックは立派に通用するはずです。しかし、この思想を心の底から信じている人は、おそらくこの国の全人口の1パーセントにも満たないと思われます。もちろん、このロジックをBグループの人にたいしての説得の手段に用いることは、考えないほうがよいでしょう。
 
 
 このロジックには、もともと9条に賛成だったはずのAグループの人でさえもひるんでしまうかもしれません。「え、これって、そういう話だったっけ……?」急にこの条文が恐ろしいものに見えてきてしまいますが、そういう部分もあるというのは事実だと思います。9条を守ってゆく道には想像もできないほどの困難が待っているということもありうるということについては、ここで思い起こしておくべきかもしれません。
 
 
9条
 
 
 
② 9条を守ることが、現実的にみてもベストな策であることを訴える
 
 
 したがって、9条の弁護をBグループの人たちに対して行うさいには、方向を180度回転させてみる必要がありそうです。それは、崇高な理念ではなく、あくまでもリアリスティックな見方に基づいて、「今の状況においては、9条を選ぶことこそがこの国にとって善をもたらすのだ」と主張することです。
 
 
 9条を守りつづけることは、たしかに一見すると、理性から外れているように見える。しかし、国際政治という領域は、まっとうなことだけをやって生きてゆけるような世界ではない。よく考えてみると、9条はきわめて得な選択肢なのだ。確かに、やっかいな点はいくつもあるが、今の状況においてはこれほど「理にかなった」条文はないのだから、これからそれを手放してしまうという手はない。それに、この国にはこれまで、この条文を使って実にうまく国際情勢を切り抜けつづけてきた伝統もある。9条を改正して、普通の国になる必要などない。それは確かに、まともな選択肢に見えはするが、実は損の方が多い。したたかに生き残ってゆくためにも、ここはひとつ、9条を守りつづけようではないか。
 
 
 Bグループの人にとっては、②について納得することさえできるならば、①の話に耳を傾けることもやぶさかではないでしょう。何しろ、合理的な選択であるうえに崇高な理念まで付いてくることになるわけですから、不都合な点は見当たりません。このシリーズにおいても、まずはこれから②について論じたのちに、①のほうに移ることにしたいと思います。
 
 
 
9条
 
 
 
 僕は、この国の未来について考えたとき、最も避けなければならないのは、この国が「軍事路線の大国」にむかって進んでゆくことだと考えています。もちろん、かつての大日本帝国のような方向に向かう可能性はかなり低いと思いますが、現に軍備費はどんどん増していますし、東アジア情勢の現状を考えると、ある程度は増さざるをえないという実情もあります。良かれ悪しかれ、自衛隊はこれから先も拡張しつづけざるをえないことでしょう。
 
 
 政治やマスメディア、世論の領域では、この点についてはまず間違いなく、「中国にたいする防衛を強化しなければならない」という議論が、これからますます高まってゆくことが予想されます。中国の進出にたいする不安を煽られたさいには、この国の圧倒的な大多数を占めるサイレント・マジョリティー層は、軍事拡張路線にたいして、賛成はしないまでも、おそらく無言の同意を与えることになると思います。この傾向が高まるところまで高まったときに、国民の不安を解決するためにも、「責任のある国になろう。9条を改正しよう」というレトリックが多くの国民の心をつかむようになり、改正という選択肢がついにリアルなものとして迫ってくる日がやって来る可能性は、けっして低くないのではないでしょうか。
 
 
 しかし、かりに9条を改正するようなことがあれば、軍事的な拡張をつづけている中国をきわめて強く刺激することは避けられないでしょう。そのさいに、私たちの国が自前の核兵器を持っていないということは、きわめて大きな弱みになってこざるをえません。
 
 
 僕がいちばん危険だと思うのは、「だからこそ、日本も核兵器を持たなければならない」という声が高まり、じっさいに核兵器を持つという選択肢をこの国が選びとってしまうことです。そういうことはさすがにまだしばらくはないと思いますが、仮にもしそれがどこかの時点で実現するとすれば、日米同盟と中国が対立する東アジアは、核戦争の可能性が地球のなかで最も高い地域になってしまう恐れがあります。いったん軍事的エスカレーションのプロセスが進んでしまうならば、それを逆向きに進めることはとても難しいというのは、何よりも歴史が証明しています。
 
 
 僕は、たとえ核戦争がじっさいに起こらないとしても、インドとパキスタンよりも、イスラエルとイランよりも危険の高い地域のなかで生活してゆくというのは、とても大きな心理的負担を私たちに与えることになるのではないかと思います。最悪の場合には、日米同盟と中国が、あの冷戦下のときのアメリカとソ連と同じような軍事的緊張を抱えたままで数十年を過ごすということもありうるのではないでしょうか。じっさいの核戦争が起こることを避けなければならないのは、言うまでもありませんが……
 
 
 この可能性については、今の時点では想像するのが難しいと思いますが、大局からみると、ここ数十年の流れはこのシナリオを実現する方向にむかって進んでいるようにもみえます。核については不確定要素も多いので(ここには、政治・世論・原発などの国内のさまざまなファクターに加えて、アメリカ、中国、世界各国の意向も関係してきます)、なんとも言えませんが、軍事的緊張が高まったときに、核兵器が問題の焦点の一つになることは大いにありえます。ただちに戦争をすることにはつながらないとしても、集団的自衛権行使の問題は、この方向にむけての大きな一歩であると考えることもできるように思います。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
[今回からの9条弁護については、仮定の話が多くなってしまい、申し訳ありません。けれども、国の未来を考えてみるさいには、たとえ仮定にとどまらざるをえないとしても、さまざまな可能性について検討しておくことはけっして損にならないと思います。それから、未来のプランについて考えてみたときには、現実のことを考慮に入れれば入れるほど、美しいとはお世辞にも言えない領域にもコミットせざるをえない部分も出てきます。この点については、どんな選択肢を取るにしてもすべてがうまくゆくわけではないと納得するしかないようにも思いました。今回からの数回についてはふだん以上に、視野から抜け落ちていることも多々あるかと思いますが、どうかご容赦ください。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)