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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

戦争はいずれ地上から消えてなくなる?   ー未来の人間と平和的生存権

 
 憲法学のなかでは、日本国憲法第9条は人間がもつ新しい権利にかかわっているという議論がなされることがあります。そこでは、次のような主張がしばしばなされます。「平和的生存権と呼ばれるこの権利は、20世紀前半にその萌芽が芽生え、9条によってついに具体的なかたちをもつようになった」。
 
 
 そもそも、人類は歴史の歩みとともに、それぞれの人間に保障される権利を加えつづけてきました。たとえば、このブログではここ1ヶ月ほどのあいだ、憲法と国のかかわりについて論じてきましたが、もし僕が600年前のヨーロッパに生まれていたとしたら、弾圧されたりしないように、もっとずっと気をつけて書かなければならなかったことでしょう。もちろん、永遠平和について論じることなどは、たいていの場合はNGです!僕も、時代が時代なら、「わが君主の闘いぶりはまことにすばらしい」と書かなくてはならなかったかもしれません。200年前の哲学者たちですら、考えたことを発表するのに苦労している様子がみえます。思想の自由と呼ばれる権利は、ここ数百年のあいだの闘争によって、ようやく勝ちとられたものにすぎないといえます。
 
 
 平和的生存権については、人類はまだ、その獲得をめざして努力しているさなかにあります。そして、9条を持っている私たちの国は、この努力が行われている最前線のひとつであるということができそうです。日本国憲法の前文には、次のように書いてあります。
 
 
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 
 
 ここでは、平和的生存権は、この国のみならず、地球に生きるすべての人間がもつ権利であると主張されています。もしもこの権利が世界中で保障される未来がやってくるなら、地球上からあらゆる戦争は消えてなくなることになるでしょう。
 
 
 今のこの世界のなかで戦争がひんぱんに行われているからといって、ここで現実にたいしてひるむ必要はまったくありません。あらゆる権利は、次のように言います。「もしも現実が私に従わないのなら、その時には私ではなく、現実のほうが間違っているのだ。現実は、私に従わなければならない。」今からこのロジックにそくして、戦争と平和について考えてみることにしましょう。
 
 
 
平和的生存権
 
 
 
 私たちはまだどこかで、「人間がいるかぎり、戦争はなくならない」と無意識のうちに考えているところがあります。そもそも、戦争を行うことは人間の本性に属している。平和主義者がいくら夢のようなことを言ったとしても、人類はこれまでずっと殺し合いをつづけてきたではないか、というわけです。けれども、今のこの世界のあり方に捉われずに、これまでの歴史の流れを眺めたうえで、遠い未来のヴィジョンを見通すならば、こういう風に考える必要はなくなってきます。
 
 
 たとえば、地球のうえから奴隷制に似た犯罪がまだ完全に消え去ったわけではないにせよ、今日、「人間がいるかぎり、奴隷制はなくならない」と主張する人はほとんどいないでしょう。しかし、古代に生きた人びとの多くは、奴隷制が人間の本性に属するものだと考えていました。「これまでずっと奴隷がいたのだから、間違いなくこれからも……」この考えが間違っていたということを、現代に生きている私たちはすでによく知っています。
 
 
 戦争についても、これと同じことが言えるのではないでしょうか。まず間違いなく、戦争はここしばらくは地球上から消えてなくなることはないでしょう。しかし、だからといって戦争は永遠になくなることはないのだと考える必要はないはずです。平和的生存権というイデーは、奴隷制が人権に反しているように、戦争もまた人権に反しているのだと主張しています。人権に反することは、さまざまな抗議を受けたのちにいずれ地上から行き場を奪われてゆくことについては、これまでの歴史によっても、くり返し示されてきました。
 
 
 戦争を行うことはつい最近までは、国家の正当な権利として認められてきましたが、平和的生存権というイデーはこの権利にたいして、きわめてラディカルな抗議を行うものであるといえます。そして、この平和的生存権なるものの守り手として名乗りをあげた日本国憲法第9条は、次のように主張します。「国家は、戦争を行う権利などは持っていない。むしろ、その逆だ。国家はそこに生きる人間の一人一人にたいして、戦争など起こったりしないことを約束しなければならない。だからこそこの国は、戦力を持たないことによって、平和的生存権を約束するのだ。」
 
 
 たしかに、9条の理念をそのまま守るとするならば、私たちの国においては戦争は原理的にいって起きえません。何といっても、戦力そのものが国のなかに存在しないことになるわけですから、たとえ国がどれだけ戦争に飢えていたとしても、戦うことは文字どおり不可能です!こうして、国家は戦争する権利を奪われます。その結果、それぞれの人間は、戦争に巻きこまれない権利を保障されることになります。
 
 
 けれども、ここでただちに、すでに何度も取りあげた反論が巻きおこってくることと思います。「世界の中でひとつの国だけが9条を持っていても、しょうがないじゃないか。」この反論が9条にたいして向けられるもっとも大きな難問であることは、言うまでもありません。9条を擁護しようとする憲法学者たちの多くも、このアポリアの存在にはずっと悩まされつづけてきたようです。たしかに、今の世界だけを眺めているとこの反論には答えようがないのですが、思考を冒険させてはるか未来の世界のことを考えるならば、手がかりが少しだけ見えてきます。どうやら、日本国憲法第9条は、地球の未来の平和のあり方についてひとつの提言を行うものであるとみることもできるようなのです。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
平和的生存権
 
 
 
 
<補足>
 
 「平和主義では、現実に平和を守れないのではないか」「そうした状態で、9条の理念だけを追うのはあまりに都合がよすぎるのではないか」という趣旨のコメントをくださった方がいます。その方からのコメントからは、毎回、とても多くのことを学ばせていただいています。本来、連載が終わったときにお返事させていただこうと思っていたのですが、とりあえずここで一度書かせていただくことにします。本編の流れとは関係ありませんが、もし興味のある方はご一読ください。
 
 さしせまった現実の面から9条を弁護したいというときには、僕は、「美しい理念だから守りたい」というわけでは全くなく、むしろ「たとえ偽善と言われれてしまうとしても、これが世界情勢にとっても実質的には最もよいはずだ」と考えています。
 
 のちに補足させていただこうと思っていたのですが、「中国の脅威」という議論については、ここ数年来はとくに、この国のメディアによって過度に煽られている部分もあるのではないかと僕は考えています(たとえば、進藤榮一『アジア力の世紀』(岩波新書、2013年)を参照)。この傾向はおそらくこの後にも止まることはなさそうですが、この状態のままで改憲ということになると危険なのではないかという気がしています。
 
 実は僕も、「平和主義を守ったうえで改憲して、防衛についてはきちんと自分の国で責任をもつ」という選択肢を取って問題がないならば、それが一番よいのではないかと思っています。しかし、その時には、対中感情などの面から妙な方向に話が転がってしまうのではないかという点が、やはりとても心配です。この点については、私たち市民のひとりひとりが「中国は脅威だ」という語りにたいしては冷静に対応しつつ、個人のレベルでは中国人の方たちとできるだけ交流を深めてゆくというのも大事だと思います。
 
 以上のことなどを加味しつつ、「9条の維持」という選択肢をいちおう提示させていただきました。「改憲はありうるけれども、少なくとも今はやめておいた方がいいのではないか」というスタンスです。ただ、この点についてはほかの考え方もありうるでしょうし、きちんと平和を守ることのできる選択肢がいちばんよいと思います。他方、9条の理念については、こののちの記事で展開させていただくことします。長いスパンからみれば、9条はこののちの人類にとってつぎの時代を展望するためのヒントになるのではないかと考えています。この点について、もしご意見などがあれば、お聞かせいただければ幸いです。個人で書いているブログで、これほどシリーズが長くなってしまったのに読んでくださって、本当にありがとうございます。
 
 この方にかぎらず、寄せていただいた声はすべて、考えてゆくうえでの材料にさせていただいています。シリーズ自体がとても長くなってしまい申し訳ありません。残り三回ですが、もしよければ、よろしくお願いいたします!
 
 
 
(Photo from Tumblr)