イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

地球軍の創設   ーグローバル安全保障システムの究極のかたち

 
 戦力を放棄することをうたう日本国憲法第9条は、未来の世界の秩序のあり方を先がけて示しているのではないか。そのように言ってみるさいには、主に二つの可能性があるように思います。率直に言って、これらの道は、両方とも実現するまでにははるかに遠い道のりが残されているといわざるをえませんが、核兵器まで持つことになってしまった人類のこれからのことを考えると、どちらも本気に取らなくてはならない部分が出てくるのも確かです。今から、その二つの道について考えてみましょう。
 
 
 
①地球軍を創設する
 
 一見すると、マンガのようにみえる選択肢ですが、歴史の流れはこの方向性を示しているようにみえます。国際連合やEUのような組織は、19世紀の時点ではまったくの夢にすぎないと思われていました。地球軍という発想も、現在ではまだあまりリアルなものではありませんが、これから先もずっとそうであるとは限らないはずです!ここでは、そのものずばり「国連の直轄軍」を作るというプランについて語られている、長尾龍一さんという法哲学者の方の論考(「国家の未来」『リヴァイアサン』所収)などを参考にしつつ、この道について考えてみることにします。
 
 
 現在の世界秩序では、それぞれの国が武力をもつということになっていますが、国家はその武力の少なくとも一部を譲りわたして、共同管理へと委ねます(現行の国連軍のような存在をより一層推し進めるかたち)。あるいは、資金を共同で出資することによって、新たな軍隊を創設します。そうしてできあがった地球軍は、国際連合を介した多国間協議などといった意志決定プロセスを介して、必要な場合には武力行使を行うことになります。すでにこのシリーズのなかでは、グローバル安全保障システムという言葉に触れましたが、地球軍は、このシステムをくり返しアップデートしたのちに、ある時点で現れてくるものとして考えることができます。
 
 
 最後の時点では、「この星には軍隊は地球軍しかない」という状態になるのが望ましいですが、それがまだ可能ではないあいだは、各国の軍隊と地球軍が同時に存在するというかたちになることも考えられます。地球軍の実力が各国の軍事力を上回るようになれば、永遠平和はかなり近づいたといえるでしょう。
 
 
 このプランは実現性に乏しいようにも見えますが、僕は、とくに核兵器の領域については、このトピックに関して今世紀のあいだにも真面目な議論が行われる可能性もあるのではないかと考えています。核兵器は「使えないうえに異様にお金がかかる」という意味で、先進国自身にとってもきわめてやっかいな代物です。そのうえ、いちど軍事的エスカレーションが起こってしまうと、誰の得にならないにもかかわらず核戦争の危機にむかうことを避けられないので、もはやいかんともしがたい兵器であるといえます。そういうわけで、核兵器については原理的なところから状況を改善しなければならないというのは、すでに各国が痛感しているところでもあります。
 
 
 国際連合(地球軍)が核兵器を所有すると同時に世界中で核軍縮を進めてゆくという選択肢は、いちど検討してみてもよいのではないか。かりに核兵器の領域で軍事力の共同所有化が進むとするならば、地球軍の創設はいよいよリアルなものとなってくることが予想されます。
 
 
グローバル安全保障システム
 
 
 こうしたプランを実現するための最大の困難が、今のところは国家が自らの軍事力を自分以外のものに譲りわたすことなどありえないと思われていることであるのは、言うまでもありません。エゴイズムに突きうごかされる国家が、戦力を放棄したりするはずがない。そんなことは、近代の国家どころか、歴史上のあらゆる国家にさえも反しているではないか、というわけです。
 
 
 けれども私たちは、歴史上初めてその「ありえないこと」を憲法のなかに明記した国を知っています。そうです、それはこの日本国に他なりません!
 
 
 現代の戦争にかんするアポリアはつまるところ、「それぞれの国家の武装権を少なくともある部分では放棄しなければならないが、それを行うことは今のところ絶望的なほどまでに難しい」というポイントに帰着します。それに対して、9条をもつこの国は、憲法のうえでこのことを行うことのできた、唯一の国です。日本は、グローバル安全保障システムの最終的なアップデートにたいして、いち早く対応しているともいうことができるでしょう。
 
 
 ほかの国の憲法は、グローバル安全保障システムの未来のアップデートに、まだ耐えることができません。そんな中、曲がりなりにも「戦力を放棄する」という条文をもつ憲法が存在しているという事実は、来たるべき未来の方向をさし示しているといえます。第一次世界大戦後に創設された国際連盟も、当時はさまざまな点からみて不十分すぎると批判されましたが、けっきょく、そののちの国際連合につながってゆきました。9条についても、何らかのかたちで未来に受けつがれてゆく可能性はきわめて高いと予測できます。
 
 
 グローバル安全保障システムの最終形態を示唆するものとしての、日本国憲法第9条。荒唐無稽なようにも見えるけれど、実はこれこそが、9条についてもともと抱かれていたヴィジョンだったのではないかとも言われています。どうやら、この条文を構想したダグラス・マッカーサーという人は、いま言ったようなことに近い未来を、本気で構想していたようなのです。長尾龍一さんは先ほどあげた論考の中で、この事実について指摘しつつ、「自衛隊国連直轄軍のために提供すればいいではないか」と提言しています。自衛隊を世界のために差しだすことは9条のもともとの理念にも合致しているはずだ、というわけです。
 
 
グローバル安全保障システム
 
 
 この点については言うのが少しはばかられてしまいますが、地球軍の創設や核兵器の共同所有といったアイディアは、核戦争などのカタストロフがじっさいに起きてしまった場合には、リアリティーが段違いで増してくるのではないかと思います。そういうことが起こらないためにも、世界秩序の未来のかたちを前もって考えておく必要があるのだといえるかもしれません。たしかに、こうしたことの実現までの道のりは、果てしなく長いといわざるをえないでしょう。けれども、ここで思い起こしておきたいことが二つあります。
 
 
 一つは、人類の歴史は、個々のものに目を奪われていると先の見えない悲惨にしか見えないけれども、着実に少しずつよくなっているということ。私たちは、はるか先のことを見すえて生きるときには、希望をもつことを許されます。過去の人間たちは、今の民主主義社会を創りあげるために闘いぬいてくれました。これからの私たちは、戦争をなくすために闘うことになるでしょう。未来の子供たちが「昔の人たちって、戦争してたんでしょ?今の世の中でよかったよね」と言える日は、いつか必ずやって来るはずです。そのためにはおそらく、単に事態のなりゆきを楽観視しているだけではいけない。未来のことを信じたうえで、じっくりと考え、行動しつづけることが必要なのだと思います。
 
 
 もう一つは、人類の歴史が少しずつよくなってゆくことを信じるからこそ、歴史の流れがかたちづくる荒波のなかにときどき光ってみえる、かすかな兆候をけっして見逃さないことです。たしかに、9条のような条文が存在していることは、まだきわめて小さな事実にすぎません。けれども、いちど生まれた光は、たとえ暗闇のなかに閉じこめられたとしても、必ずまた私たちの前に輝くときがやってくるというのが世界史の法則です。日本国憲法第9条には、誰よりもまず私たち自身が自信をなくしてしまっているといえそうですが、当の9条のほうはといえば、そんなことは気にせずに、今も未来の人類を待ちつづけているのかもしれません。
 
 
今回の記事で提示させていただいたアイディアは、まだ荒削りなものにすぎません。けれども、戦力を放棄することを主張する9条2項を新たな世界秩序の構想のための足がかりとして考えるというのは、基本線としては有望であるように思えます。このプランでは、まだ世界のなかから武力を完全に閉め出すことはできませんが、地球軍の創設は、戦争のない世界に向けた大きな一歩となるかもしれません。これが、9条がさし示す一つ目の可能性です。
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)