イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言論のユートピア   ーデモクラシーと自由についての考察のおわりに

 
 私たちはすでに、中江兆民の代表作である『三酔人経綸問答』の展開をおわりまで追ってみました。シリーズの締めくくりとなる今回の記事では、このたびの探求の主題だったデモクラシーなるものについて、とりあえずの結論を出してみることにしましょう。
 
 
 『三酔人経綸問答』において、洋学紳士君の演説は理論的な枠組みを提供する役割を果たしています。私たちはそこで、デモクラシーの根源に自由を見いだしました。音楽をはじめとする芸術は、何ものにもとらわれずに生きることを私たちに求めますが、現代の世界の奥底にもまた、この自由の原理がセットされています。デモクラシーとは何かを一言でいうならば、すべての人間が自由に生きることを実現するための社会原理であるといってもいいかと思います。
 
 
 興味ぶかいのは、洋学紳士君や、この本の著者である中江兆民には、自由の内にはらまれているとてつもないポテンシャルが、今を生きる私たち以上によく見えていたように思えることです。自由は、たんに憲法や法律で保障される抽象的な権利であるだけではなく、人間たちを活性化させるエネルギーの源でもある。自由のスピリットが人びとのもとに行きわたるとき、言論も学問も商業もさかんになって、国全体が本当の意味で豊かになってゆくのだと、『三酔人経綸問答』は語っています。
 
 
 ところで、自由を保障されていることと、自由をじっさいに行使することのあいだには大きな距離が横たわっています。日本国憲法でさまざまな自由が保障されているといっても、その自由をいかんなく発揮して生きるのは、とても難しいことです。ロック・スターや、ビジネス界のカリスマ、自分のお店を切り盛りする店長さんから、仕事をスイスイこなしながら飄々と生きるサラリーマンまで、本当の意味で自由に生きる人は、人間たちのなかでもごく少数であるようにみえることは否定できません。
 
 
 その一方で、私たちには、自分が望んでいる範囲の自由を実現するのを止めるものは何もないといえます。おやつを食べたいなら、コンビニかケーキ屋さんに行けばいい(昨今のコンビニのスウィーツのおいしさには、驚くばかりです)。好きな人と付きあいたいなら、勇気をだして告白すればいい(昔の人にとっては、自由に恋愛ができるということは、とてもうらやましいことでした)。そして、どうしても作家になりたいというならば、自分の部屋にこもって、がんばって毎日ものを書きつづけることを、誰も止めることはできません……。ただし、将来の保証がまったくないことは、覚悟しておく必要がありそうですが!ひょっとすると、生きるというのは、その人なりの自由を実現するということに尽きるのかもしれません。
 
 
 
中江兆民 三酔人経綸問答 自由
 
 
 
 『三酔人経綸問答』のような本が私たちにとって大きな意味をもつといえる理由は、一つには、この本が、人間に与えられている言論の自由をいかんなく行使しているまたとない見本を見せてくれるからです。本のなかでは、洋学紳士君も豪傑君も、それから南海先生も、なんといきいきと自由に語っていることでしょう!極論にゆきつくことも恐れずに、お酒とユーモアをまじえながら、国の未来や人間の生き方についてざっくばらんに語ってみること。豪傑君のように、あまりにもマッドな戦争論にのめりこむのはすこし問題かもしれませんが、この世のあらゆる制約をこえて理想の世界を思いえがく洋学紳士君や、ほろ酔い気分でうきうきと政治談義にいそしむ南海先生の姿のうちには、この本の作者の夢がつまっていると思います。
 
 
 中江兆民のじっさいの人生の道のりは、挫折につぐ挫折にほかならなかったようですが、『三酔人経綸問答』の世界においては、このうえなく愉快な言論のユートピアが実現されています。言論の自由な雰囲気こそは、人間のほかのあらゆる活動を活気づけるものであることを考えると、中江兆民はこの本を書くことで、私たちにたいしてとても大きな贈り物をしてくれたということができるかもしれません。この国においては、自由に自分の意見をいうことがまだ少し難しいところがありますが、この本は、さまざまなトピックについて言いたいことを言ってみる自由を広げてゆくための、またとない手助けになるはずです。取りあげることのできなかった論点もいくつかありますが、『三酔人経綸問答』については、とりあえずこの辺りで終わらせることにしたいと思います。全貌が気になるという方は、ぜひ本のページをめくってみてください。思想の本ではありますが、極論につぐ極論で、退屈せずに読めることうけあいです!
 
 
 読んでくださって、ありがとうございました!よい日曜日をお過ごしください。
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)