ところで、哲学的に考えるという範囲においてさえ、コンゴの現状のような話題に言及するということには、抵抗が伴わずにはいません。「私たちのふつうの生活は、暴力によって成り立っているのではないか」という問いを立てることは、そうせずにいられるならば、そのままに済ませたいところです。
実は、この抵抗は思想史の世界においても起きていました。アダム・スミスからはじまった経済学は、当初は牧歌的でおだやかな雰囲気を漂わせていました。
時代が進むにつれて、人びとは、資本主義のシステムにはすさまじい暴力と搾取のプロセスがはらまれていることに目を向けざるをえなくなってゆきました。マルクスにいたって、この暴力にたいする告発が最大限に鋭いものになったことは、周知のとおりです。
今日、資本主義にたいする原理的な批判は、以前に比べてずっと大人しいものになりました。近年、トマ・ピケティの本が大きく取りあげられましたが、それまでの資本主義批判と対照させてみると、そのトーンの力強さは比べものになりません。
もちろん、トーンが激しければいいというわけではないのは言うまでもありませんが、資本主義が生み出しつづけている暴力は、とくにいわゆる第三世界では依然として深刻です。
この点、スラヴォイ・ジジェクのような人の鋭い舌鋒は、あまりにも極論すぎるという点で議論の余地がないわけではないとはいえ、今日の現状にたいする警鐘を鳴らす役割を果たしている功績は大きいのではないかと思います。
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、第二次世界大戦後の秩序を「第三次世界大戦が各地で戦われつづけている」という風に表現していたと記憶しています。かなり大げさな表現のようにも聞こえますが、私たち先進国の側から歴史を見るのではなく、第三世界の側から事態を眺めるさいには、この言葉がぐっとリアリティーを増してくるのは確かです。
「見えにくくなっただけで、本当は血は流れつづけているのではないか。」心苦しい話題ではありますが、お金について考える私たちの探求は、すでに思わぬ深淵のほうに突き進んでしまいました。もう少しだけ、この事態について掘りさげて考えてみることにします。