イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

剥奪と暴力

 

 裁きの宣告:
 そんなことをする(言う)なんて、あなたは人でなしだ。

 

 「裁きの宣告は、人でなしとみなされた人間から権利と尊厳を剥奪する。」
 

 通常状態の人間の世界においては、「互いに危害を加えてはならない」という原則(これを危害原則と呼ぶことにします)が働いています。この原則はふだんは明確に意識されることはありませんが、人間が「ふつうの生活」を営むことができるのは、この原則が休むことなしに暗黙理に機能しつづけているからです。
 

 ところが、裁きの宣告は、宣告を受けた人間にたいするこの危害原則の適用を解除します。
 

 危害原則のこの解除は、「人でなし」を「人でなし」として糾弾することであり、人間であるという権利の剥奪です。この剥奪とともに、宣告を受けた人間は無条件に糾弾可能となり、その人間を原理的にはあらゆる暴力(物理的・精神的を問わず)に向かって開きます。
 

 ここから見えてくるのは、私たちが「平和なふつうの暮らし」を営むことができるのは、人間であるという特権にあずかっているからに他ならないという事実です。もしもこの特権を奪われるようなことがあるとすれば、おそらく、その瞬間に私たちの生のあり方はあらゆる側面において一変してしまうものと思われます。
 
 
 
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 剥奪と暴力というこれらの出来事は、議論の炎上状態においてのみならず、人間世界の他の領域においても起こっています。その最もわかりやすい例は、学校や職場などにおけるいじめなのではないでしょうか。
 

 いじめとは、無条件に迫害可能となった人間にたいして振るわれる暴力にほかなりません。人間であることの権利を剥奪された人間は、いじめを行う人間たちにとっては、危害原則を適用されない「人間以下の存在」に貶められてしまっているものと考えられます。
 

 ジョルジョ・アガンベンホモ・サケルと名づけた形象は、私たちの身近な日常生活においてもさまざまなところで密かに顔を出しつづけているのではないか。重苦しい話題ではありますが、倫理について考えようとするとき、ひとは暴力について考えることを避けられないのではないかと思われます。