「存在するという運命は、それを望むにせよ望まないにせよ、唯一的な主体であるわたしに課せられている。」
わたしが、この世にこの人間として生まれてきたこと。そして、わたしが今ここにこの人間として、存在していること。
このことは、わたしの自由にはなりません。運命に対するこの受動性は、自由意志によるどんな選択にも先立つような受動性であるといえます。
眠りから目を覚ましたわたしは、わたしがまたしても、他の誰でもないこの人間であることを知る。
わたしには、わたしがわたしであることがこの上もない喜びであることもあれば、ほとんど呪いのようなものでしかないこともある。けれども、いずれにせよこの「わたしが他の誰でもないこのわたしである」からだけは、絶対に逃れることができない。
哲学やフィクションの世界においてはよく、可能世界なるものについて語られることがあります。しかし、この可能世界についての夢想は、わたしがわたしであるという運命に対してつねにすでに事後的なものでしかありえないのではないか。
「数ある可能世界のひとつが、この世界なのだ。」ライプニッツのような哲学者は、実際そのように考えました。けれども、可能世界について考えるわたしが、わたしの存在という運命に対してつねにすでに遅れているということだけは、どうしても否定することができません。
可能世界というテーマは現代的なものであるようにもみえるけれど、本当は光学と表象の原理によって思考する近世という時代に属している。フィクションの方からわたし自身の存在について考えるという道が、本当はわたしがわたしの運命から逃れるための口実でしかないとしたら……。
存在の運命に対する事後性という概念は、わたしの生について哲学的に考えるうえで外せないもののように思われます。この意味における運命については、これを存在するという外傷と言い換えることもできるかもしれません。