イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

動物食の例

 
 倫理的に生きようとする人には時に(しばしば?)、次のような疑問を投げかけたくなる瞬間が訪れます。
 

 「倫理なんて、すべて忘れて生きる方が楽ではないのか。」
 

 一言でいえば、倫理はストレスの原因になる。思い悩んで悔い改めて、それでも何もできず、胃の調子まで悪くなるというのは、あんまりではないか。
 

 もう、こんなことで気に病むのはやめにしよう。他のみんなだって、もっと気楽にやっているはずだ。別に人の道を外れるわけではない。ただ、今よりももう少しリラックスして生きてみるだけ……。
 

 たとえば、動物食は残酷なのではないかと思いはじめた人がいるとします。あるいは、私たちの国では毎日、殺したのに食べもしなかった動物たちの肉がいたるところで廃棄されていますが、そのことが気になりはじめた人を想定してみてもいいかもしれません。
 

 「これはさすがに、まずいのではないか。そもそも、動物を殺して食べるということ自体、本当はやめにするか、あるいは少なくとも、量を控えたほうがよいのではないか……。」
 
 
 
動物食 倫理 ベジタリアン 肉
 
 

 たとえ、その人がそのように考えたとしても、彼あるいは彼女のまわりのほとんどの人は変わらずに肉を食べつづけています。ベジタリアンの数がまだ少ないこの国では、動物食は残酷なのではないかと言ってみても、大抵は白い目で見られるだけです。
 

 やはり、自分がおかしいのだろうか。こんなことは気にせず、ただ美味しい肉を頬張っていればいいのではないか。
 

 それとも、黙って一人で肉を断つべきだろうか。けれども、一人で食べないでいるのも空しい気がする。そもそも自分だって、牛や豚の肉を食べたくないわけでは決してないのであって……。
 

 倫理はこのように、人間を徒労にもみえる気苦労へと引きずりこむように見えます。ここでは動物食そのものの可否を問いたいわけではありませんが、もう少しこの線に沿って考えてみることにします。