動物食の例から、もう一つの帰結を引き出しておくことにします。
「倫理は私たちを、私たち自身をめぐる論争のうちに巻き込まずにはおかない。」
くり返しになってしまいますが、ここでは動物食の可否を論じたいわけではありません(詳しくは、別の機会に検討したいと考えています)。筆者自身は、「肉を食べること自体はともかく、殺して食べていることは折に触れて意識化したほうがよいのではないか」というスタンスですが、このトピックにはさまざまな考え方がありうるのではないかと思います。
いずれにせよ、ここで興味深いのは、動物食の問題は私たちを底なしの論争の泥沼に引きこむという点です。
大切にすべき命とは何か。人間と動物とでは、何が違うのか(あるいは、違わないのか)。倫理は両者の同一性と差異に応じて、どのように変化するのか。
こうした問いを問うことを通じてあらためて照らし出されるのは、私たち自身の生のあり方に他なりません。何が善で何が悪なのかという問いから逃げられる人は、おそらくこの世に一人もいないからです。
これは本当に、恐ろしい問いです。誤りなしに善と悪を決定できる人間など誰もいないことは明らかですが、それでもこの問いから逃げることはできません。それは、私たち人間はみな、愛し傷つけ、慈しみ殺さずに生きてゆくことはできないからです。
誰もが知らないが、誰もが行っている。無垢のままでいられる人はおらず、その手が汚れていない人間は一人もいない。
私たちがもしも牛殺しや豚殺しの化け物であるとするなら、人を殺してなぜいけないのか。その逆に、もしも「人を殺してはならない」という掟が絶対的なものとして響くとするなら、その根拠は一体どこにあると言えるのだろうか。
動物食の問題はこのように、人間の世界の成り立ちそのものを揺るがしかねない大問題であることがわかります。この問題は、たんに周辺的な問題であるどころか、実は倫理と実存の中核に直結していると言えるのかもしれません。