イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者の未知性

 
 「ごめん、少しだけ考える時間をもらってもいい?」
 
 
 告白に対して船越さんから上のように答えられたことによって、A君は、期間無制限の「待ち」の状態に入ることになりました。
 
 
 論点:
 私たちの人生は、予測不可能な他者の反応に絶えず気を配りながら歩んでゆく必要がありそうである。
 
 
 世の中には、他者がどう考え、何を感じているのかにほとんど関心を向けることなく、まるで自分以外の人間はNPCでもあるかのように生きている人もひょっとしたらいるのかもしれません。しかし、人生を本当の意味で豊かなものにしようと思うのならば、他者は私たちのあらゆる予想を超えた「未知なるもの」であることを、折に触れてくり返し思い起こす必要があるのではないか。
 
 
 告白という行為の後には、この他者の未知性が際立ってこざるをえません。いくら「君は僕のことが好きなはずだ」と考えたとしても、相手が「わたしも好きです」と言ってくればなければどうしようもありません。そして、相手がはたしてわたしのことをどう考えているのかは、まさしくその相手本人にしか分かりません。
 
 
 「あの子はこれまで、僕のことをどう感じていたのだろう。」告白の返事を待つA君は、昼も夜もそう自問自答し続けざるをえません。こうして、この世には未知なる他者が存在するという形而上学的事実(この未知性は、単に経験的であるだけでなく、原理的なものでもある)が、A君の心の中にもおぼろげながら刻み込まれてゆくことになります。
 
 
 
告白 未知 他者 エマニュエル・レヴィナス 哲学
 
 
 
 他者の未知性というこの事実は、まごうかたなき真理でありながらも、たえず忘却されてゆく傾向にあります。
 
 
 「この人のことは、もう理解してしまった」と一度思ってしまうと、そこから考えを変えるのはなかなか難しいものです。現実には相手を理解しつくすことなどありえないにも関わらず、もう理解したと思い込んでしまうのが人間の性なのかもしれません。
 
 
 しかし、隣人たちと、その言葉の十全な意味において「善い関係」を築くためには、ひとは、この宿命的な傾向に常に抗いつづけてゆく必要があるのではないか。他者のために何かしようと思うよりも前に、まずは他者を理解することが必要であったというケースも、少なからず存在するのではないだろうか。
 
 
 エマニュエル・レヴィナスは、他者の未知性というこのモメントを全面的に前景化して論じましたが、哲学には彼以降にもこのモメントについて考え続けてゆく務めが与えられているのではないかと、筆者は考えています。今回の探求も哲学的にはここからが本番といったところかもしれませんが、引き続き、A君と船越さんのケースに場合に応じて立ち戻りながら考察を続けてみることにしましょう。