イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

インディペンデント知識人について、もう少しだけ考えてみる(1)

  先週は、人文知の未来について、五日間のあいだ考えてみました。インディペンデント知識人たちと大学の研究者たちとが協働することにより、社会のなかでの人文知の認知度をあげてゆくことで学問の危機を救う助けとすることができるのではないかというのが、そこで主張したかった主要なポイントでした。おそらく、21世紀前半の思想においては、インディペンデント知識人というライフスタイルの確立が最も重要なテーマのひとつになってくるはずです。僕がそう考えるのは、このライフスタイルこそが、格差社会反知性主義といった、グローバリゼーションがもたらす弊害にたいして理論的なレベルでも対抗してゆく可能性を示してくれる数少ない道のひとつであるように思えるからです。ところが、ここで論じた「インディペンデント知識人」なるものの具体的なイメージが湧いてこないという指摘を、すでにさまざまな方からいただいています。そこで今日は、この点について考えてみたいと思います。理数系の学問のことも後ほど考えてみる必要もあるでしょうが、ここでは話を簡潔にするために、人文系の学問に話を限定させてください。
 
 
  インディペンデント知識人たちは、ハードコアな人文知を直接に生かしつつ、高度資本主義社会のなかを自由自在に泳ぎ回ってゆきます。彼らは、それぞれ独自のやり方で人文知をカスタマイズすることによって、生活の糧を確保しつつ、同時に、大学での研究にひけをとらないレベルの知的創造にたずさわってゆくはずです。
 
 
  文学の場合を例にとってみましょう。もし、いま大学で行われているようなしかたで文学について語るとするなら、サブカルチャーの持つ、あのめまぐるしい速度とキャッチーさに日ごろから慣れ親しんでいる21世紀の人びとの心をつかむのは不可能にちかい。しかし、文学はそのかわりに、とてつもない強度をはらんだ思考と、繊細かつ多様な知覚を読むものに体験させてくれるという長所を持っている。これに加えて、きわめて長い歴史の蓄積があるという強みもあれば、文化的なものに触れることによる、ちょっとした高級感さえ与えてくれるというおまけまでついています。こうした魅力を備えている文学について、たくみにエンターテインメント性を織りまぜつつ書くことのできる人間が現れてくるならば、その人は、文学を武器とするインディペンデント知識人として、りっぱに活動することができるでしょう。そのためにはおそらく、文学についての語りを、従来に比べれば掟やぶりだとしか言えないほどにスピードアップさせつつ、短時間のうちに読者にたいして莫大なインパクトを与えることのできるものにバージョンアップしてゆく必要があるはずです。けれども、漫画やゲーム、ハリウッド映画やポップ・ミュージックに囲まれて育った私たちのなかから、ハイカルチャーをまんまとサブカルチャー化して語ってみせる知性と感性を備えた新たな書き手が現れてくる可能性は、きわめて高い。
 
 
インディペンデント知識人
 
 
  インディペンデント知識人たちが生計を立ててゆくための方法は、きわめて多様なものになることが予想されます。彼らは、私塾を開くこともあれば、インターネット上の書き手として活躍することもありうる。人文知を駆使しつつ、企業の研修や社会人向けの講演会のなかに入りこんでゆく講師もいるかもしれない。これが20世紀の話であれば、インディペンデント知識人が活躍することのできる土壌はずっと限られていたことでしょうが、情報テクノロジーの発達により、これから先にどんな新しいタイプの仕事が現れてくるのかは、まだ誰にも予想できない段階にあります。言葉やイメージの流れを取りあつかう人文知は、この点からすれば、21世紀的な社会のあり方と、とても強い親和性を持っているということができる。人文知のアーカイヴのなかに詰まっている、はかり知れないほどの量の情報を効率よくマーケットで売ってゆくノウハウを掴むことができるならば、知的な豊かさと商業性を両立させたコンテンツが、この社会のなかをもっと自由に飛びかってゆくことになるでしょう。そのことで、この国全体の文化レベルを底上げしてゆくこともできる。ピーター・ドラッカーがいうところの、私たちが生きるこの「知識社会」のなかに、人文知はわが意を得たりとばかりに大胆にもぐりこんでゆくことができます。ハイカルチャーのまわりに漂う高級感が持っている市場価値は、今もけっして低くはないはずです。
 
  
  もちろん、現実はそんなに簡単にゆくものではないと思います。けれども、じっさいに時代の雰囲気が変わってゆくシナリオは、それこそ無限に想定することができる。たとえば、異様なカリスマを備えたインディペンデント思想家がたった一人でもこの国のなかに現れてくるならば、どうでしょうか。彼の言動が拡散されてゆくための方法は、以前とは比べものになりません。マンガやゲームなど、いまのサブカルチャーの世界は、知性を売りにした頭脳派のキャラクターのイメージであふれています。若者たちは無意識のうちに、私たちよりも先にインディペンデント知識人の到来を今か今かと待ち望んでいるのかもしれません!
 
 
  語り出せば尽きません。しかし、気がついてみると、書いているうちに妄想が際限なくふくれ上がってゆくところでした!息をついて、少し落ちつくことにします。けれども、まだ希望はいくらでも持てるのではないかというのが、僕が言いたかったことです。今日の記事だけではまだお答えすることができなかった点があるので、もう少しだけこの話題を続けさせていただきたいと思います。
 
 
 
 
[今回の一連の記事のシリーズについては、ほぼ毎日がいつもの二倍以上の量になってしまい、申し訳ありません。たまたま目に入ったところだけでもご覧いただければ幸いです。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)