イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

安保法案から中江兆民へ   ーデモクラシーについて、はじめから考えてみる

 
 安保法案をめぐる国会での騒動から、一週間以上がたちました。今回の件については、すでにさまざまなことが言われていますが、このブログでも少し考えてみることにしたいと思います。
 
 
 すこし残念なことに、集団的自衛権をめぐるこの問題については、この国の人びとの大部分は、あまり関心を持っていなかったように思います。確かに、インターネットの世界においては、さまざまな意見が飛び交いました。また、国会の動きが騒がしくなってから、とくに、法案が成立して以降は、テレビにおいても多くの報道がなされるようになりました。しかし、全体としてみるならば、マスメディアの報道のあり方とも結びついて、国の多くの人のあいだを圧倒的な無関心が支配していたといえるのではないでしょうか。
 
 
 ここには、インターネットに代表される新しいメディアと、テレビや新聞といった旧来のメディアのあいだの温度差があるように思います。インターネットの中では、デモクラシーやパブリックな議論にたいする熱気が高まっていますが、テレビの世界においてこの動きが取りあげられることは、あまり多くありません。この国の未来について考えるさいには、いよいよこうした問題に触れずにすませることはできなくなっているように思われます。この問題については、10月のどこかで、『理性の日本と共感の日本』というシリーズにおいて論じてみたいと考えています。
 
 
 本題に戻ります。おそらく、憲法の問題は、この問題に関心のある人が思っている以上に、この国の人びとの多くを巻きこめていない部分があることは否定できないと思います。ただ、今回の件をとおしてパブリックな領域への関心がさまざまなところでとても高まったというのも、まぎれもない事実です!あまり暗くなってばかりいても仕方ないので、ここからは、未来にたいして希望がもてるような方向に話を進めることにします。
 
 
 
中江兆民 安保法案
 
 
 
 おそらく、今のこの国のなかには、「政治や民主主義について、漠然と興味はあるけれど、どう関心を広げていっていいのかよくわからない」と思っている人は、けっして少なくないと思います。パブリックな領域について語るためには、何やらとても高いハードルを越えなければならないようにみえます。僕も、政治や社会問題について語ったり書いたりするときには、いつもとても不安です。自分の意見は、ひょっとしたら見当外れなのではないか……。けれども、こうしたことについては、少し別なふうに考えてみることもできるようです。
 
 
 よく考えると少し恐ろしくなってしまいますが、今のこの国のなかで、すべてのものごとを見通せている人は一人もいません。このことは、日本に限ったことではなく、地球のすべての国について言えると思います。すべての人が、きわめて限定された立場から考え、他の人と話し合い、行動しているうちに、どういうわけか国や世界が動いてゆく。誰にでもかならず、見えていない部分はあります。新しい知識を取りいれたり、他の人の意見を聞いたりすることはいつの場合でも必要ですが、政治については、もっと思ったことを自由に発言してもいいのではないでしょうか。
 
 
 古代のギリシア人は、自分が思ったことを公の場で率直に語ることをパレーシアと呼んで、とても大切にしていました。僕は、今のこの国にいちばん必要なのは、このパレーシアの精神なのではないかと思います。「憲法のことはよくわからない」「9条は、よく考えると絶対おかしいと思う」「何にせよ、平和は大事だ」「どうしても政治に興味を持てないんだけど、それじゃダメなのかな?」など、とにかく思ったことを、誰かと話してみたり、インターネットに書いてみたりすること。他の人を傷つけていいわけではないのは言うまでもないことですが、思ったことを率直な言葉にして他の人に投げかけてみることは、たとえそれがどれだけささいなものに見えるとしても、どこかで国の空気を自由なものにすることにつながっているはずです。
 
 
 『もっと言葉を!』というシリーズにおいては、理性と言論をテーマにしましたが、今回からの数回の記事では、デモクラシーと自由をテーマにしつつ、安保法案の問題に深くリンクする古典を紹介してみたいと思います。その古典とは、今から130年ほど前に書かれた、中江兆民の『三酔人経綸問答』です。デモクラシーへのまたとない入門書でもあるこの本に触れながら、今の問題について考えてみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)