ところで、神による救いについては、その「ありえなさ」から目を背けておくことはできません。今回は、この点に触れておくことにします。
この宇宙は、人間には想像することができないほどに広大です。また、最近には重力波が観測されたというニュースが世の中をにぎわしましたが、人間たちにわかっているだけでも、この宇宙が今の姿をとるまでには、百億年をゆうに超えるスケールの時間がかかわっていることがわかっています。
神がもしも存在するとするならば、人間は、蟻よりもずっと小さな存在にすぎないということになりそうです。もちろん、私たちから見た細菌よりも、神から見た私たちのほうがはるかに小さいことでしょう。
こうした観点からみると、「神が人間のひとりひとりを愛していて、救ってくれる」という考え方は、とても頼りないものに見えてきます。それどころか、救いがおよそありえそうにない出来事にさえ見えてくるということは、否定するのが難しい。
「けれども、それにもかかわらず、愛されているとしたら。」神の愛は、すべての「ありえなさ」を突き破るようにして啓示されるということになります。
これは、信じることがほとんど愚かさにも等しいような可能性です。神の愛を信じるというのは愚かさの側に賭けることであるということについては、今のうちに正面から引き受けておく必要がありそうです。
おそらく、近代に入ってから神というトピックが哲学者たちの視野から次第に消えていったのは、この救いの「ありえなさ」の問題が深くかかわっているのでしょう。すべてのものごとを合理的に考えようとするかぎり、愚かさの側に賭けることは、問題にすらなりえません。
僕も、たとえ知恵ある人びとがみな「神の死なんてとうぜんだ」という顔をしていても、断固として愚かさの側に立ちつづけたい。それは、もしも神の救いがないとしたら、人間の置かれている状況はあまりにも惨めすぎると思うからです。この世には、それだけの悲惨があふれているのではないか。
「神が、最後の時にすべての知識と知恵を空しいものにするとしたら。」この点については、次回にもう少し考えてみることにします。