「心の最深部は生きている神に直接つながっており、神はそこからわたしたちにずっと呼びかけつづけている。」救いの道がわたしたちに提示しているのは、このような途方もない可能性にほかなりません。
単なる観念や理念ではない、生きている神が心のうちでわたしに呼びかけているという考え方はいうまでもなく、誰の目にも見えるかたちで証明することができるものではありません。そのすべてがたんなる想定にすぎないという可能性も、理論的にはありえます。
けれども、多くの哲学者や宗教者たちの神についての思索がこの方向性を指し示しているということもまた、事実であるように思います。
たとえば、すでに述べたように、デカルトとカントはともに、神のイデーがいかなる経験とも関係のないかたちでコギトのうちに宿っていることに、大きな注意を払っていました。
近世と近代にかけての知の枠組みにおいては、このモメントは神の〈観念〉や〈理念〉の問題として捉えられましたが、デカルトやカントの指摘は、一歩進んで、生きている神の〈臨在〉の問題として捉えるときに、一層理解しやすくなるのではないか。
外部への開放系としての、超越論的な自我。それならば、わたしの心がイデアや神のような存在に直接つながっているとして、どうして問題があるといえるでしょうか。
エドムント・フッサールの思索はこのような途方もない可能性につながっており、とても興味深いものです。それに、彼はどうやら、最晩年にはまさしく、神についての思考を深めようとしていたようですし……。
こうした点については、これ以上のことは詳細なフッサール研究に委ねることにします。私たちとしては、「外部に直接につながっている心」というイデーを得られたことで満足することにしましょう。
たんなる観念や理念ではなく、生きている神に向かって呼びかけるという可能性。そして、それのみならず、生きている神から直接に呼びかけられているという可能性。
くり返しになりますが、これは論証できず、信じるほかない可能性であることには注意しておかなくてはなりません。けれども、信仰者の歩む道と現代の現象学の探求が指し示す方向性が一致していることには、きわめて意義深いものを感じます。