イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

広がる距離への懸念

 
 それにしても、福音を伝えるって本当に難しいと、僕は思うのである。特に、思わず湧き上がってくるテンションの盛り上がりを抑えるのって、本当に難しい。たとえば、聖書が語っているキリストの位置づけについて、考えてみる。
 

 三位一体論への入口:
 聖書によれば、イエス・キリストは人間であると共に、神そのものである。
 

 これは信仰者としては、心が絶えざる喜びに満たされずにはいないような事実なのである。神が人の姿をとって現れ、私たち人間とともに歩んでくださった。ここには、神さまがご自分の方から人間に近づいてきてくださったという、無限の愛が示されているのである。
 

 だが、この辺りから、信仰者としてはある種の異様な気分の盛り上がりを抑えきれなくなってくるのだ。だって考えてもみてほしいのである、神が、そう神がだ、人間となって受肉してだよ、来てくださったのであるよ!これはもはや、大興奮せずにいるほうが難しいというものではないか。
 

 いや、ごめん。そんなこと言われてもただひたすらに引かせてしまっているだけかもしれないことは、僕もよくわかってるつもりなのだ。だが、もう抑えられんよ。限界だ。僕の魂の底から湧き上がってくる特大のハレルヤを、僕はこれ以上、どうやって抑えればよいというのか……!?
 
 
 
 三位一体 聖書 イエス・キリスト 信仰者 絶縁 ハレルヤ 信仰 伝道者 福音
 
 

 ……とまぁこんな具合に、隣人の前で振る舞ったとしてみよう。はたして、彼とその隣人との関係は一体どうなることであろうか。
 

 「……まぁ、絶縁とかじゃないですか。」
 

 その通りである。悪ければ絶縁、よくても多大なる距離ができることは必至である。だからこそ、キリスト者は不審人物だと思われることのないよう、細心の注意を払いつつ、隣人愛の観点からも常識的な市民道徳を守りつづけねばならぬのである。
 

 そして、信仰の喜びとは本来、変なテンションの盛り上がり方をするというよりも、どこまでも静かでありながら絶えることがないといったものかもしれないとも思うのだ。いやでも、たまには大いに盛り上がりたいし、できれば誰かと一緒に盛り上がってもいいのではないかという気もするが……。
 

 この辺り、まだ結論があるわけではないので、ひとまずペンディングとしておくことにしたい。いずれにせよ、一人前の伝道者への道はまだまだ遠いということだけは間違いなさそうである……。