イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「その話をする気は、私にはない」

 
 ところで、この「自己への配慮 Souci de soi」なる用語なんだけど、何気にオリジナルはフーコーなんよね。知ってる?フーコー
 

 「……ええまぁ、名前くらいは……。」
 

 ミシェル・フーコーって、哲学やってる人は誰でもたいてい一回くらいはハマらずにはいられないっていうくらいのカリスマ哲学者なのである。風貌も、ある種異様でカッコいい。いちおう下に写真を貼っとくから、あとで下にスクロールする時にでも見てみてね。
 

 んで、問題の自己への配慮であるが、これはそのフーコーが晩年になってから打ち出した概念なのである。常にカリスマオーラを出しまくってるフーコーにしてはわりに地味な趣のある晩年の議論だが、最近、やっぱりこの人が何か言うからにはいつでも理由があるんだなぁと、僕もあらためて注目させられているのである。
 

 先に断っておくと、フーコー古代ローマにおける性愛とか夫婦愛の文脈の中でこの概念を持ち出してくるのだが(『性の歴史III 自己への配慮』)、このブログでは今のところ、性について語るつもりはない。それはやっぱりあれだ、この性なるテーマについてはどう語ればいいのか、その語り口や切り口の選択が大変に難しいからである。
 

 というわけで、マジすか教えてくれないんすかphiloさん、その話はやっぱりオフレコなんすかうおぉ僕もう我慢できないっすハァハァという血気盛んな若者には、じかに原著にあたってみることをお勧めしたい(翻訳版は新潮社刊、1987年)。古代ローマ人たちによって追求された性と愛の小宇宙が、そこでは逃げも隠れもせずに展開されていることであろう。
 
 
 
自己の配慮 souci de soi ミシェル・フーコー 哲学 性の歴史 チョメチョメ
(画像はウェブサイトより転載)
 
 
 
 それにしても、一つのブログの品位を保つというのは大変に難しいことであると言わざるをえない。だがワトソン君、それでもこの僕は、野卑な連中のぶしつけな要求に屈するわけにはゆかないのだ。それとも何かね、君はかの名著『暇と退屈の倫理学』の書名にあやかって、僕に『君とパイオツの倫理学』でも書けというのかね。何という変態なのだ君は!
 

 「ちょっ、言ってませんよそんなこと!philoさんがいきなり勝手に言い出したんじゃないですかっ!」
 

 まあいい。いずれにせよ、このブログに「パイオツ」はNGだということを心に銘記しておいてくれたまえ。まったく、近頃の若者ときたら、こちらが油断をしていればすぐさまチョメチョメの話題に走りたがるから困ったものだ。
 

 高貴なるわれわれとしては、純粋哲学の談義に戻るとしよう。自己への配慮というのは、それこそあらゆる哲学徒に課せられる務めである。あのソクラテスは同胞たるアテナイ人たちに、自らの魂を気づかうこと以外の何を教えたというのか。
 

 そしてわれわれ哲学者にとって、魂の美と幸い以外に追い求めるべきものが何か存在するであろうか。僕の品性が下劣なのではないかという無益な勘ぐりは、どうかお控えいただきたい。はっきり言っておくが、このブログにはいわゆる下品な表現は一切、それこそ一語たりとも持ち込む気はない。僕としては、『イデアの昼と夜』はあくまでもNOパイオツ&NOチョメチョメのスタイルで通したいと考えているのだ。