イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

子猫とセネカ

  まさか本当に、猫を集めることになろうとは。『ねこあつめ』についての記事を書いたその日に、子猫を保護することになりました。この子は最近、お母さんと一緒に、わが家の庭をひんぱんに訪れていたところでした。もらい手が見つかったので、幸いなことに昨夜、ボランティアの方と協力して保護することができました。
 
 
  一度ことが起こってしまうと、あとの話は早い。母親がももちゃんと呼ばれているので、その子は子猫の飼い主によって、ももたろうくんと命名されました。ももたろうくんは今日、新しい家へともらわれてゆきます。千葉県までの旅を体験することになりますが、どうかこれから先の生活に、スムーズになじんでいってほしいものです。
 
 
  「ももたろうくんの話は大いに結構だが、ちょっと待ってくれ。このブログはいつの間にか、猫ブログになってしまったのか?」いえ、今から本題の哲学に入るところです。ここから役に立つイデーを汲みとれるように、なんとか頑張ってみます。
 
 
  子猫のももたろうくんのことは私たちに、運命なるものの存在について考えさせます。たしかに人間たちの側からみれば、辛く大変な野良猫の生活よりも、家で飼われていたほうがずっと幸せなのだと言うことはできるでしょう。しかし、このかわいそうな子猫には、人間の言葉がわからない。事情も何もわからないままに捕まって、そのまま監禁されてしまったのです。彼はいま、自分のもとに破滅が来てしまったと思っているのかもしれない。少なくとも彼にはもう、自分の生を自由に選択することができなくなってしまった。そうだ、これこそが運命というものだ。
 
 
  「君は、この子猫のことを憐れむというのか。しかし、憐れんでいる君自身もまた、君の運命にたいして何もなすすべがないという点では、この子猫と何も変わるところがないのだ。」ストア派の哲学者なら僕にたいして、そう言うかもしれません。人生が順調に行っているときなら、そこには何の問題もないかもしれない。けれども、もしもこの子猫のように、自分の力ではどうしようもない逆境のうちに置かれてしまったとしたらどうか?その時にこそ、運命は正体をあらわして、その真の姿を見せることになるだろう。すなわち、運命とは、人間に必然の一撃をもたらすものにほかならない。ひとは運命を選ぶのではなく、運命に選ばれるのだ。
 
 
運命は望むものを導き、望まぬものを引きずってゆく。
 
 
  この言葉を書きつけたセネカは、みずからも壮絶な人生をくぐり抜けました。カリグラやネロといった皇帝たちのもとで生きた彼は、つねにこの運命の問題を考えつづけざるをえませんでした。一人息子の死、コルシカ島への八年間の流刑、そして、ネロによって命じられた自死。無惨な出来事が、何度も容赦なく彼に襲いかかりました。しかし、彼はストアの哲学者として、自らに降りかかった運命を見事に耐え抜いてみせました。セネカのような人がいたということは、どんな理論にもまして、哲学が持ちうる力を証しています。ひとは哲学することによって、過酷な運命をも従順に受けいれることができる。
 
 
  僕自身はといえば、まだその境地まではだいぶ遠そうです。これから先の人生に、ストアの教えに深く聞き入らなければならないほどの出来事が、はたして自分を待ちうけているのだろうか。その答えはわかりませんが、一方で、私たち人間が運命なるものの存在からけっして逃れられないというのは確かなことです。明日が今日と同じ日になるかどうかは、誰にもわからない。だからこそ、ふだんからそのことについて繰りかえし考えておくというのも、生きるうえで大切なことなのかもしれません。
 
 
  「なるほど、たしかに哲学の話だ。‥‥‥しかし、これ、暗すぎるんじゃないか?」た、たしかに。一体、なぜこんなことになってしまったのでしょう。そうでした、ももたろうくんの話からこうなったのでした。でも、ももたろうくんを待ちうけているのは過酷な運命なんかではなく、きっと幸せな新生活のはず!これから、彼をお医者さんに連れていったあと、千葉まで見送りにゆく予定です。もしよかったら、ももたろうくんの幸せをどうかお祈りしてあげてください。
 
 
 
ももたろうくん セネカ ストア派
 
 
 
 
 
 
  (やはり、記事を短くまとめるのはとても難しいですね。昨日から引きつづき、申し訳ありませんでした。次こそは短く!)