ハイデッガーの思考の根本モチーフ:
古代ギリシア人たちに襲いかかり、哲学の営みそのものを開始させたその衝撃のただ中で、真理現象を根源的に捉え直す。
ついに来た、という感じである。ハイデッガーという哲学者の特徴を挙げるならば、哲学の歴史の中でも、とにかくスケールが大きな思索を繰り広げたの一点に尽きる。この場合にも彼が狙っているのは、「ベルリンの文部省との関係で本も出さなくてはならないことだし、そろそろ自分の哲学でも打ち立てるか」といったようなことではないのである。哲学そのものを原初から、根源的に始め直さなくてはならないのである。
言うまでもなく、ハイデッガーの生きていた時代のヨーロッパにはすでに、哲学の営みがあった。そして、現代の日本を生きている私たちのもとにも、哲学の伝統は伝えられている。私たち哲学徒は、日々哲学をしている。哲学をすることは、私たちの生の欠かすことの一部をなしているのである。
しかし、そもそも私たちは、なぜ哲学をしているのだろうか。哲学のない世界で生き、そのまま死んでゆくということもありえたはずであるのに、なぜ哲学をすることが、私たちの運命となっているのか。
この点に関して、ハイデッガーの答えは明瞭である。哲学をすることが私たちの運命であるのは、古代ギリシアにおいてギリシア人たちを襲った運命の衝撃に、私たちも巻き込まれているからである。私たちが哲学をしたいから、哲学をしているというのではない。運命が私たちに、哲学をするように強いているのである。この点、根源においては人間の側に選択権があるというのではいささかもなく、むしろ、原初においてはまず、運命の方が人間を選択したというべきかもしれない。
この辺り、人によって大きく反応は分かれてくるものと思われる。素直な心の持ち主で、自分自身の魂も哲学への愛で燃え立っている人の場合には、即座に「その通りだわ。現存在であるところの私たちはまさしく、古代ギリシア人たちと同じ衝撃のただ中に立っているのね……!」となるかもしれない(ハンナ・アーレント型)。しかし、こういった類の話を聞いた人の中にはおそらく、「いやもう、哲学っていうか、宗教だろこれ……。」と感じずにはいられない人も、いなくはないかもしれない(ルドルフ・カルナップ型)。
いずれにせよ、ハイデッガーのために一言付け加えておくことができるとすれば、彼の主張に賛同するにせよ、しないにせよ、彼の哲学の実力が、ハリウッドでいえばそれこそアーノルド・シュワルツェネッガーかドウェイン・ジョンソンばりの超重量級であることは、いかなるアカデミシャンであろうとも認めないわけにはゆかなくなっているという事実を挙げることができよう。その意味では、「彼の哲学上の主張を学び、吸収しておくことは、少なくとも学びという面からすれば多大な意義を持つものであることは間違いない」とは言うことができそうである。
話を本題に戻すと、ハイデッガーによるならば、二千年前に哲学の営みを開始させた運命の衝撃のうちに宿っていた力は時が経つとともに隠蔽されてゆき、忘れ去られていった。私たちが真理現象に関して「物と知性との一致」の概念で事足れりとしてしまっているのは何よりも、この忘却に端を発していると言えるのではないか。ハイデッガーの企てはしたがって、この忘却に抗いつつ真理の根源的な現象へと遡ってゆくことによって、哲学の営みそのものをかの「運命の衝撃」のただ中で取り戻すといったものになることであろう。原初を根源的な仕方で反復することが、哲学の務めになるというわけである。