イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ウィトゲンシュタインはどこで「問題を捉え損ねた」か?:『論理哲学論考』と『存在と時間』

 
 言明の真理と論理学の関係について、もう少し考えてみることにしよう。
 
 
 アリストテレス以来ほとんど進歩していなかったと言われる論理学が19世紀後半に入ってから急速な発展を遂げたことは、よく知られている。「命題関数」というアイディアを核にしたゴットロープ・フレーゲの仕事は、この学問領域をめぐる風景を一変させた。彼によって創始された現代論理学がその後、主に英米圏で「分析哲学」と呼ばれることになる哲学の潮流へとつながっていったことは、今の時代に哲学を学んでいる人々には周知の事実であると言ってよいだろう。
 
 
 ハイデッガーも20世紀前半を生きた哲学者として、フレーゲの仕事の存在を知ってはいた。しかし、彼はその「現代における論理学の新展開」を、言語や真理についての見方を変えるようにと迫る決定的な出来事とはみなさなかった。
 
 
 彼によれば、真理の根源的な現象の隠蔽はそれよりもはるか昔、アリストテレスが論理学を誕生させた時にすでに始まっていた。論理学の登場と共に、「物と知性との一致」という伝統的真理概念が支配的になってゆく運命は、すでに決せられていたのである。フレーゲ以降の論理学の展開はその運命をさらに強固なものにするものではあっても、それを打ち破るようなものではない。
 
 
 かくして、『存在と時間』のハイデッガーにとって重要となるのは、フレーゲの仕事と向き合うことであるよりも、論理学の祖であるアリストテレスと根源的に「対決」しなおすことの方である。論理学がすでに存在していることを前提としてしまったならば、「物と知性との一致」によって真理の根源的な現象が覆い隠されてしまうことは、もはや押しとどめえない。論理学のような何物かがはじめて生まれ出てくるその根源へと遡ってゆき、そこでかの真理の根源的な現象そのものを、掴まえ直すこと。言明の働きを「覆いをとって発見すること」として捉えるハイデッガーの企ては、そのことをこそ目指していたと言えるだろう。
 
 
 
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 おそらく、ここにこそ、ハイデッガーの『存在と時間』とウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』とが交差しながらすれ違う、決定的な分岐点がある。
 
 
 『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインにとっては、フレーゲによって行われた論理学の革新こそが、決定的な出来事であった。「およそ語られうるものは明晰に語られうる」という『論考』の根本思想は、「命題関数」の発想とは切っても切り離すことのできない関係にある。その意味では、『論理哲学論考』とはフレーゲの仕事から出てくるある種の必然的な方向を示すものであったとも言えるわけで、類まれな形而上学的感性と鋭い知性の働きに恵まれた(あるいは、取り憑かれた)一人の特異な青年が、その務めを果たしたのである。
 
 
 しかし、どうなのだろうか。異様な明晰さとコンパクトさを兼ね備えたこの著作は、ひょっとしたら事柄を解き明かすよりも、むしろ覆い隠してしまったのではないか。
 
 
 「像の真偽とは、像の意味と現実との一致・不一致である。」(『論考』2.222)。思考と世界、あるいは命題と世界との関係を像関係として捉える『論理哲学論考』の発想は、おそらくはそれと自覚しないうちに、「物と知性との一致 adaequatio intellectus et rei」という伝統的真理概念に全面的に依拠してしまっている。
 
 
 哲学的センスの塊以外の何物でもなかったウィトゲンシュタインは、そのことによって覆い隠されてしまうものがあることを明晰に自覚はしていたものの、それを「語りえないもの」の領域へと放逐してしまうことによって、それについて語るための言葉を持たないままに「問題はその本質において最終的に解決された」と結論づけてしまった。彼はいわば、自分自身の思考が身を置いている歴史的な地盤を根底のところから問い直すことなく思考を進めてしまったのであって、そのことによって真理の問題に関して「事柄を捉え損ねてしまった」のではないかというのが、『論理哲学論考』という著作に関する筆者の見立てである。
 
 
 もっとも、例の「語りえないもの」に対するウィトゲンシュタインの立場の是非については、論者によって、これとは違った語り方をすることも可能かもしれない。いずれにせよ、『存在と時間』と『論理哲学論考』という、20世紀の哲学を代表すると言われている二つの著作の思考が、論理学の歴史をどのように捉えるか、そして、「物と知性との一致」という伝統的真理概念に対してどのようなスタンスを取るかという分岐点において交差しつつすれ違うことについては、以上の論述で大まかなところは示されたのではないかと思う。問題が大陸圏と英米圏とを問わず、現代哲学の核心部に触れるものであることを確認した上で、私たちとしては言明の「覆いをとって発見する」働きについて、さらに掘り下げて考えてみることにしよう。