イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

金銭の悪しき本性

 
 コンゴのコルタンだけでなく、ナイジェリアの石油や、ニジェールウランなど、アフリカでは、話を資源だけに限定してみても悲惨な現状を抱えているケースが数多く存在しています。けれども、ここでは議論を一般的なレヴェルに引き戻しつつ、「金銭は暴力を生みだす」というテーゼについて考えてみることにします。
 
 
 お金というものが暴力につながりうるものであるということは、ある意味では誰でも知っていることです。その一方で、たいていの場合には、そのことは意識されていないか、あるいは、暴力や犯罪は、ある種の事故のようなものとして考えられているのではないでしょうか。
 
 
 けれども、私たちが先進国の「ふつうの生活」が営まれるエリアから離れてゆくと、お金というものはしだいに悪しき本性をむき出しにしはじめます。
 
 
 アジアや南米などでもこうした現象を確認することができますが、今日の地球ではとりわけ、アフリカにおいてこのことが著しく際だっているといえる。そこでは、金銭のうちに潜在していた悪しき本性は荒れ狂って、想像もつかないほどの数の人びとを苦しみのうちに引きこんでいます。
 
 
 
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 金銭のうちに宿る悪しき本性は、私たちの国では、少なくとも多くの場面では前面には出てこないので、私たちは、ふだんは自分が「誰にも迷惑をかけないふつうの暮らし」を営んでいると信じながら日々を過ごすことができます。
 
 
 けれども、お金がおとなしく見えるのは私たちの目でよく見える範囲においてだけの話で、見えないところではむき出しの暴力が振るわれつづけているとしたら、私たちは一体、このことをどのように考えたらよいのでしょうか。
 
 
 ところで、僕自身はマルクス主義者ではありませんが、マルクスという人の思考のうちには、私たち見たがらないこうした現実の負の側面に目を向けさせてくれる利点があるのは確かです。
 
 
 私たちの国の経済システムも、グローバルな経済システムと緊密につながることではじめて機能しています。気づまりな話ではありますが、金銭が悪しき本性をあらわにするところでは、今日も変わらず暴力や死が生みだされつづけていることには注意しておいてよいのかもしれません。