イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学は何のためか

 
 このあたりで、哲学者とお金の関係というはじめの話題に立ち返ってみることにします。すると、哲学者はここで、一つのアポリアの前に立たされている自分自身を見いだすことになります。
 
 
 「すべてのものを振り捨てて、ただ真理だけを追い求める。」なるほど、そういう生き方もありうるでしょう。その際には、お金というものはたんなる生活の手立てにすぎないので、ただもう、できるかぎり金銭の圧力からは逃げつづけるのみだということになります。
 
 
 正直に言って、それが今までの僕の生き方でした。僕は、哲学以外のことを考えたくなかった。他のことからは、逃げて逃げて、逃げつづけたかった。自分としては、哲学を学ぶこと以外に、何も自分の生きがいが見つからなかったからです。
 
 
 けれども、たとえば、コンゴをはじめとする地球のさまざまな地域のことを考えはじめるときには、事態はこれまでとは少し違って見えてきます。
 
 
 僕は、助手のピノコくんがいなければ、まず確実に社会から逃げていただろうし、今も逃げ気味なことは否定できません。けれども、この生活自体がそもそも見えない他者への暴力によって成り立っているのだとしたら、一体どう考えたらよいのだろう。このまま、逃げつづけているだけでよいのだろうか。
 
 
 
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 考えてみると、これは僕だけの問題ではなく、哲学者一般にたいして投げかけることのできる問いかもしれません。すなわち、「哲学者は、真理を追いもとめるだけでよいのだろうか。」
 
 
 すべてのものごとの原理を極めつくしたとしても、何もこの世に働きかけることなしにこの世を去ってしまうとしたら、それは人間としてよい生き方なのだろうか。とくに、その人が密やかに振るわれる暴力のおかげで日々の糧を得つづけていたとしたら……。
 
 
 これは、答えることがきわめて困難な問いです。ジル・ドゥルーズも晩年の主著でこれと同じ問いに言及していましたが、もし実際に話すことがあったとしたら、かれは一体、どのように答えてくれたでしょうか。
 
 
 「哲学者ははたして、何のために真理を求めるのだろうか。」根源的な問いほど、単純でありながら、実は真剣に問われることが稀なのかもしれません。不十分なものになることは避けられなさそうですが、これからこの問いにたいして、今の自分なりの答えを出しておこうと思います。