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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

近代政治哲学の問いなおしに向けて

 
 人権についての筆者自身の考えは、前回に見た、次のような見解にまとめることができそうです。
 

 「人権は、究極のところでは人間にたいする神の愛にもとづく。」


 神の愛は何かの見返りとして与えられるようなものではなく、純粋な贈与のオーダーに属しています。この愛に応答しようとする人間の自発的な意志が、普遍化された人類愛として、人権としていわば結晶化してゆくことになる。


 この見解によるならば、人権とは、隣人への愛を法のかたちで言い表したものであるということになるかと思います。この意味からすると、人権の要求を実現することは、人間の世界を神が望むかたちに作りかえてゆくことであるといえそうです。


 近代の哲学は、人間が理性を用いるということのうちに人権の基礎をみようとしつづけてきました。社会契約論や、カントの実践哲学、最近ではジョン・ロールズの正義論などがその代表例であるといえますが、 この発想には原理的な困難があるといわざるをえないのではないか。


   
人権 純粋な贈与 ジョン・ロールズ being doing ホッブズ カント



 なぜなら、理性を用いることが「できる」というのは、最後のところでは、何かを生産することが「できる」という価値観にもとづいているからです(doingのロジック)。この価値観からは「無用な存在」や「殺害可能な存在」というカテゴリがどこかの時点で出てきてしまうことになるというのは、私たちがすでに見たところです。


 これにたいして、ただ生きていることにもとづくbeingのロジックは、生産ではなく存在に、働くことではなく愛されていることにもとづきます。たんなる理想のようにも聞こえますが、すでに先進国で実現されている社会権のような権利は、まさにこちらの方の路線に沿ったものであるといえると考えることもできそうです。


 おそらく、私たちは、ホッブズからカントあたりまでに敷かれた近代政治哲学の基本路線を、もっと深い思考の地層から問いなおさなければならない地点に立っているのではないか。このことを、この後にもさらに掘りさげてゆくべき課題として提起したうえで、私たちは、今回の探求の最後の論点に移ることにしましょう。


 
 
 
 
 
 
[昨日(1月25日)は、ふだんからお世話になっている恩師の植村恒一郎先生と、ここ数回の記事に関連する内容についてツイッター上でやり取りをさせていただく機会があったので、興味のある方は参照していただければ幸いです。先生とは知り合ってからもう十年になりますが、とくにここ最近になってから、植村先生のありがたさが身にしみています……!]