イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

弁神論の完結不可能性テーゼ

 
 「悪の存在について、私たち人間はどう考えたらよいのだろうか。」実存することの深淵においては、この問いが、耐えがたいほどの痛みのうちで問われることになりますが、ここでは、次のようなテーゼを提出しておくことにしたいと思います。


 弁神論の完結不可能性テーゼ
 :人間には、悪の存在について、神の存在に照らしつつ合理的に説明しつくすことはできない。


 マルブランシュやライプニッツといった17世紀合理主義の哲学者たちは、神の計画の合理性にもとづいて悪の存在を説明しようと試みました。この説明にしたがうならば、悪が存在しなければならない必然性も人間にとって理解しうるものになるはずなのですが、おそらくは、この試みはどこかで挫折せずにはいられないのではないか。


 それというのも、この世界に癒しがたい傷が存在するというのは、人間には否定しがたいことのように思われるからです。


 ひょっとすると、神の側から見るならば、合理性は貫徹されているのかもしれません。けれども、人間の側から見るならば、どうしても納得することが難しいように見える出来事は、やはり全く存在しないとはいえないのではないか。


 弁神論の完結不可能性テーゼは、人間の側から世界の完全な善性を考えることの不可能性を主張しています。このテーゼは、この世界に癒しがたい傷が存在するという事実に、信仰者の目を向けさせようとします。



悪 マルブランシュ ライプニッツ 弁神論 合理主義



 しかし、仮にこのテーゼが正しいものであるとしても、信じることそのものが不可能になるわけではないことには、注意しておくべきかもしれません。


 完結不可能性テーゼの系
 :人間がもしも神を信じるとするならば、人間には悪の存在を合理的に理解しつくすことができないという不可能性にもかかわらず、信じるのである。


 人間にとって理解が不可能にみえるところで、それにもかかわらず、神の愛を信じること。おそらくは、この「それにもかかわらず」にしがみつづけていられるかどうかが、信仰者の実存が最も鋭く問われる地点であるといえるのではないか。


 これは、わたしの知的な理解よりも、あなたの愛のうちに生きることの根底を見いだすという意味で、いわば形而上学的な愚かさのほうに自ら身を委ねることであるといえます。


 しかし、この世のあらゆる賢さにも勝る愚かさというものも、ありうるのではないか。筆者は、人間の本当の強さは、愛にみちた知恵ある愚かさを求めつづけることのうちに宿るのではないかと考えています。