イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

血は慎重に隠される

 
 前回の論点をもう少し補足しておくことにします。
 

 「暴力は、見えないところで振るわれる。」
 

 前回に挙げた例でいうならば、近世ヨーロッパの人びとは、自分たちが急速に獲得しつつある豊かさが、黒人奴隷をはじめとする多数の見えない他者たちの犠牲の上に成り立っていることを、おそらくはほとんど意識しなかったのではないでしょうか。
 

 それというのも、暴力や搾取の行為は、つねに日常世界から離れたマージナルな場所でなされることをその本質としているからです。
 

 市民社会の担い手であった人たちは、オペラや絵画の鑑賞には目がなかったとしても、大西洋の真ん中やカリブ海の島々で振るわれているおぞましい暴力には、ほとんど注意を払わなかったことと思われます。けれども、ヨーロッパ近代の成立がこうした暴力なしには決してなされえなかったことは、現代の歴史学が指摘している通りです。
 
 
 
黒人奴隷 近世ヨーロッパ 村上春樹 ジョニー・ウォーカー 海辺のカフカ 哲学
 
 

 暴力はつねに、私たちが生きている日常世界のまなざしを逃れたところで振るわれつづけてきたということ。しかし、それにも関わらず、暴力は私たち自身の世界の不可欠な部分をなしているということ。
 

 村上春樹氏の文学は、この悪の不可視性の問題を、一貫して追いつづけています。『海辺のカフカ』において、子猫の首を次々に切り落としてゆくジョニー・ウォーカーという人物は、その形象化が最も鋭い仕方でなされた例の一つといえるのではないでしょうか。
 

 哲学を、見えるものを超えて見えないものへと向かう思考の営みであると言うことができるのならば、哲学は、世界のエッジにおいて振るわれつづける暴力のこの不可視性をも問わないわけにはゆかないのではないか。この意味では、世界の暗部に目を注ぐこともまた、哲学の務めの一つなのではないかと思われます。