イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

歴史が私たちに語ること

 
 それにしても、苦しんでいる見知らぬ他者を助けたほうがよい理由とは何だろうか。その根拠はさまざまに考えられますが、まずは次の点を挙げることができるかと思います。
 
 
 「その他者は、私たちのことが原因で苦しんでいるかもしれない。」
 

 たとえば、精神の病は、少なくとも部分的には、その人のいる環境や社会のあり方が大きく関係している場合が少なくありません。この場合、病んでいる人たちの問題は社会全体の問題でもあるといえるのではないか。
 

 また、貧困の問題がグローバル経済システムと切っても切り離せないことは、言うまでもありません。この意味では、貧困とそれに伴う問題について、「罪のない」先進国は存在しないと言ってよいのではないか。
 

 こうして考えてみると、むしろ、苦しんでいる人々の苦しみが純粋に個人的なものである場合のほうがはるかに少ないのではないだろうか。苦しんでいる人の苦しみが、苦しんでいない人が苦しんでいないことのしわ寄せでもあるとしたら……。
 
 
 
見知らぬ他者 世界史 黒人奴隷 貧困 先進国
 
 
 
 「私たちは、私たち自身が知らないところで誰かを傷つけながら生きているのではないか。」
 

 現代の人間は、次第にこのような問いかけの声に敏感になってきているように思われます。そのことは、一つには、歴史に対するものの見方の変化も大きく関係しているといえるでしょう。
 

 世界史を振り返ってみると、現代の豊かな世界は、つねに見知らぬ他者たちを傷つけることで築かれてきたことがわかります。物品のように扱われ、運ばれる途中で力尽きて投げ捨てられて、大西洋の海の底に沈んでいった黒人奴隷たちなど、このことの例を挙げはじめると枚挙にいとまがありません。
 

 このことは、2017年現在の地球においても、もはやただの昔話になったとは言いがたい状況にあります。後代の歴史家は私たちの時代について、おそらくは私たち自身とは異なった評価を下すものと思われます。
 
 
 
 
 
 
 
[現代のケースとしては、昨年にコンゴの話題を取り上げました。]