イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

開かれそれ自体を思考すること

 
 前回までで取り上げたかったトピックはとりあえず一通り扱いましたが、終わりに次の点を確認しておくことにします。
 

 「想像を超えて現実のうちに足を踏み入れた時に、本当の意味での倫理がはじまる。」
 

 見知らぬ他者の苦しみについて想像することは、おそらく倫理にとって不可欠な契機です。けれども、わたしがもしも想像の内部性にとどまりつづけるならば、その想像は実を結ばないもので終わってしまうことでしょう。
 

 どんなに美しい、あるいは壮大なイデーであっても、頭の中に存在するだけでは、感傷や不誠実にとどまるだろう。倫理なるものには、どこかとても厳しいところがあることは否定できません。
 
 
 現代の人間の心においては、想像と現実の、ヴァーチャルとリアルの区別がしだいに曖昧なものになりつつあるのではないか。しかるに、他者たちとの関係においてこの区別は、ほとんど絶対的なものであるといわざるをえないのかもしれない。倫理なるものの困難さを、あらためて実感させられます。
 
 
 
倫理 サバイバーズギルト ヴァーチャル リアル 見知らぬ他者 構造
 
 

 想像だけでは何もしたことにはならない。けれども、想像することなしには、わたしが新たな現実に向かって開かれることもないのではないか。
 

 見知らぬ他者の苦しみについて想像することは、わたしにサバイバーズギルトを抱かせるとともに、わたしを他でもないこの世界に向かって開きます。他者への開かれそれ自体が閉じられつつある時代においては、この開かれそれ自体を思考することが必要になってくるのではないだろうか。
 

 現実から遊離しているという批判に身をさらしつつ、哲学は、現実の生を形づくる構造を思考しつづけます。構造を知ることそれ自体が現実の生のあり方を変えてゆくことができるならば、哲学はその時にこそこの批判に正面から応えることができるのかもしれません。